家庭教育における「待つ」

私は、昔、アルバイトで塾の数学講師をしていた。
たぶん、たいていの塾は同じだと思うのだが、授業の進め方は、
 
 1.問題を与え、解くように指示する。
 2.適当な時間(塾によって違う)待つ。
 3.正解を解説する。
 
というものだった。
手順2の「待つ」があるのは、手順3の「解説」の前に、問題をよく読んで
ほしいからだと思う。
つまり、いきなり解説をはじめると、その問題の「難しさ」もよくわからず、
したがって、頭に何も残らないだろう、ということだ。と、私は思う。
 
逆に言うと、塾の先生は、この時間内に生徒が問題を解くことを
期待しているわけではない。
いや、その時間内に全部解けちゃうなら、先生が不要になってしまう。
(なんてことを考えて授業をしている先生は、たぶん、いませんけどね。)
一応言っておくと、これは塾としては当然のやり方で、批判するつもりはない。
 
で、私が子供に勉強(算数・数学)を教え始めたときも、なんとなく、
上の手順に従った。
なじみのある方法だったからだ。
しかし、私は、すぐに、たっぷり待つようになった。
(ただし、ときどきヒントを出したりはする。
 それから、マンネリ感を避けるため、わざと答を言うこともある。)
それは、塾のように、教える側の都合(時間の都合など)がないからだ。
 
よく考えてみると(実は、考えるまでもないのだが)、子供が自力で問題を
解けちゃったら、問題を解説する必要もなく、親としてはバンザイなのだ。
これは、塾とは全然違うところなのである。
 
普通の塾では、ずっと待ってあげることはできない。
(最近流行の個別指導塾のことは知らない。)
それはそれで、塾の欠点ではなく、良いところでもあると思う。
 
しかし、私は、親として子供を指導する場合は、待ってあげちゃうのである。
親の指導としては、それが正解だと思うからだ。
 
ところが、いざやってみると、「待つ」というのは、なかなか大変だ。
待っている間、こちらは、何もすることがないからだ。
塾の先生の場合、「待ち時間」の主導権は先生にある。
「待ち時間」を自分で決めることができるからだ。
だから、「じゃあ、この問題をやってください。時間は10分です」なんて
言いながら、その10分を先生自身がどう使うか、自分で決められる。
 
ところが、親として、「子供ができるまで待つ」という方針を立てると、
その「待ち時間」はいつ終わるかわからなくなる。
こちらは、子供の様子を見ながら、待つのである。
 
待つのが嫌なわけではない。
子供の真剣な横顔を見ているのも楽しい。
でも、そうしていると、ときどき、「これでいいのだろうか」と思うこともある。
待っている間、自分は何も指導していない。
それで、子供の役に立っているのだろうか、と。
(塾の先生は、「待ち時間」に、やるべき作業がある。)
 
「その間に自分の仕事をやる」ということもありだろうとは思う。
実際、忙しいときは、子供にそう言って、自分の仕事をすることもある。
しかし、たいていの場合、私は、ただじっと待つことにしている。
そこでじっと待っていることが、とても重要なことなのではないかと思うのだ。
 
(思い出してみると、息子に教えたときには、私も一緒に問題を解いて、
 「競争」としたことも多かった。
 これは、これで「待つ」の変形バージョンであったと思う。)