仮想授業2

いずれにしても「桃太郎」が全然頭にはいっていないようなのでもう一度教えてみる。
「今度は単語につまづくことなくいくだろう」と思ったら、まだ同じ単語でつまづく生徒がいる。
それから、「意味はわかるが、おばあさんが川で洗濯というのはおかしい」という生徒が多数。
 
それは、洗濯は屋内でするものと思っているのか、自然保護の観点から川がいけないのか、
洗濯と女性を無反省に結びつけるのがいけないのか、聞いてみると、生徒たちはまちまちに、
「そうだ」と言ったり「違う」と言ったり。しかし、沈黙することも多い。
 
さあて、あなたならどうしますか?
 
 ・生徒たちの疑問にとことん付き合う。
 ・適当にいなして先に進む。
 
そのようなことが、「犬が家来になる」でも「鬼が島で鬼と戦う」でも起こった。
が、とにかく、最後まで読み切ることができた。
それで、生徒に「わかりましたか」と聞くと、多くは困った顔をしている。
彼らは「わかったかどうか、わからない」と言う。
「じゃあ、あらすじを言ってみてください」というと手を挙げる生徒はほとんどいない。
実際、聞いてみると、再現できる生徒は少ない。
 
さて、どうしますか?
 
 ・もう一度繰り返す。
 ・「あとは自己責任です」と言って先に進む。
 ・生徒同士で話し合わせる。
 ・「とにかく、覚えてくれ」と言う。
 
とは言え、あなたは、「せめて、あらすじを」と思い、あなたなりのやり方で、あらすじだけは
記憶はさせられたとしよう。
しかし、細部はどうもあやしい。
しかし、細部も試験には出る。いや、むしろ、試験には細部しか出ない。
あなたならどう言いますか?
 
 ・「あらすじは覚えたんだから、そこから細かいところを覚えよう」
 ・「あらすじは覚えたんだから、細かいところは覚えなくても、考えればわかるはず」
 ・「あらすじにこだわった自分が悪かった。一番好きなシーンから覚えよう」
 ・「覚えなくてもそれが君の個性。あとは自己責任で」
 
さらに、心情問題でも困った事に。
これは、記憶問題ではなく、思考問題だ。
しかし、生徒の思考はいろいろである。(育った文化が違うのだから。)
オーエド国出身のA君は、「イヌ・サル・キジの主君に仕える気持ちがすばらしい」と言う。
すると、オイロパ国のB君は、「主君に使える気持ちではなく、あれは友情だ」と言う。
キビダンゴは友情の証なのだ、と。キビダンゴで命をかけるはずはないだろう、と。
すると、ベー国のC君は、「あれは契約にすぎない。契約に使われたキビダンゴの価値を
 第3者が推し量っても意味がない。もちろん、契約者の気持ちなんかわかりようがない」と言う。
さて、あなたはどうしますか。
 
 ・「とりあえず、試験で合格が取りやすい解答を覚えよう」
 ・「みんな違ってみんないい」
 
 
・・・少し遊びすぎたかもしれない。
ニーホン国の話はこの辺にして、日本国の話に戻ろう。
 
普通に(少なくとも昭和時代に)育った日本人なら、桃太郎の話をソラで言えると思う。
それについて語ることもできると思う。
で、たとえば「数学が得意」と言う人は、「数学を桃太郎のように語れる人」だと思う。
もちろん、数学でなくても、同じである。
 
と言うことは、「桃太郎」は我々の得意科目ということになる。
それなら、「如何にして物語・桃太郎を、我々は得意科目にできたか」を考えれば、
数学や物理を得意にする方法のヒントが見つかると、私は信じるのである。
さて、我々が桃太郎をソラで言えるのは、どうしてだろう。
我々の先生は、ここまでに示した選択肢のどれ(あるいは別の選択肢)を選んだのだろうか。
 
たぶん、続く。
と思ったけど、終了します。
我々に桃太郎を教えれてくれた「先生」は、お父さんやお母さんたちでしょう。
そして、桃太郎を語るお母さんたちに教育戦略なんかなかったんじゃないかと思うのです。
何があったかというと、ただただ「愛ある繰り返し」だったのではないかと。