(ほぼ)みんなが聞きたい言葉2

日本が隣国に泥沼の侵略戦争をしかけていた頃。
あるいは、真珠湾襲撃の頃。
「この戦争は負けそうだからやめよう」とは言えなかったらしい。
 
もちろん、本当は「戦争は無垢の人を殺すからやめよう」と言ってほしかったが、
そうでなくとも、「勝てそうか」「勝てる可能性はどれくらいあるのか」すら
言えなかったとすれば、負けるのも必然だったろうと思う。
 
その頃人々が望んだ「聞きたい言葉」は「必ず勝ちます」とかだったのだろう。
そういう言葉に流されない人たちは、「和を乱す人」「負けを望む人」「敵国のスパイ」
にまでされてしまった。らしい。
 
今の日本には、そういう形がまた復活してきて、心底気味が悪い。
が、それはそれで重大な問題だけど、いろいろなところで、つまり、「安っぽい右傾化」
とかとは別のところでも、同じようなことが行われている気がする。
 
子供たちを「みんなが聞きたい言葉」に流されないように育てることは、教育の大きな
目的ではないだろうか。

(ほぼ)みんなが聞きたい言葉

スポーツの大会が続いてなかなか感動することが多かった。
 
で、ちょっとブラックっぽいけど。
 
みんなが負けた選手から聞きたいと思う言葉があると思う。
「悔いはありません」「みんなと来れて良かった」「感謝しています」的な。
わからないではない。
 
しかし、どうも時間がまいている時なのか、インタビュアーが誘導していることすらあると思う。
「みなさん、がんばってがんばって、ここまで来ました。どうですか?悔いは・・・?」みたいな。
(「はい。悔いはありません」と泣きながら言う以外の選択肢はほぼなかろう?)
そういうのが見たくないので、試合直後のインタビューは見ないようにしている。
それはまあ、見ないから実害はない。見たい人だけが見ればよいから。
 
が、そうもいかないこともある。
そう。教育の話である。
 
いろいろある。
「生徒から聞きたい言葉」を生徒に言わす。
というのは大昔からあったし、やめてほしいものの最上位にある。
が、「先生から聞きたい言葉」というのもある。
「生徒の力を信じましょう」「型にはめてはいけません」「偏差値なんかじゃわからない」など。
全部間違ってはいないけれど、使うタイミングが決まっていて(みんなが望む瞬間があって)、
それはたいてい間違った使い方だと思うのだ。

受験が終わった

娘の大学入試が終わったのが1年前。
息子の大学院入試が終わったのが半年前。
(息子の方は下宿先でのことだから、「受験」をあまり目撃してないが。)
 
最近ようやく大学入試の(最後に残った)資料を整理することができつつある。
この春になって「あー、我が家の受験は終わったんだなー」としみじみ思う。
妻も同じようなことを言う。
 

仮想授業2

いずれにしても「桃太郎」が全然頭にはいっていないようなのでもう一度教えてみる。
「今度は単語につまづくことなくいくだろう」と思ったら、まだ同じ単語でつまづく生徒がいる。
それから、「意味はわかるが、おばあさんが川で洗濯というのはおかしい」という生徒が多数。
 
それは、洗濯は屋内でするものと思っているのか、自然保護の観点から川がいけないのか、
洗濯と女性を無反省に結びつけるのがいけないのか、聞いてみると、生徒たちはまちまちに、
「そうだ」と言ったり「違う」と言ったり。しかし、沈黙することも多い。
 
さあて、あなたならどうしますか?
 
 ・生徒たちの疑問にとことん付き合う。
 ・適当にいなして先に進む。
 
そのようなことが、「犬が家来になる」でも「鬼が島で鬼と戦う」でも起こった。
が、とにかく、最後まで読み切ることができた。
それで、生徒に「わかりましたか」と聞くと、多くは困った顔をしている。
彼らは「わかったかどうか、わからない」と言う。
「じゃあ、あらすじを言ってみてください」というと手を挙げる生徒はほとんどいない。
実際、聞いてみると、再現できる生徒は少ない。
 
さて、どうしますか?
 
 ・もう一度繰り返す。
 ・「あとは自己責任です」と言って先に進む。
 ・生徒同士で話し合わせる。
 ・「とにかく、覚えてくれ」と言う。
 
とは言え、あなたは、「せめて、あらすじを」と思い、あなたなりのやり方で、あらすじだけは
記憶はさせられたとしよう。
しかし、細部はどうもあやしい。
しかし、細部も試験には出る。いや、むしろ、試験には細部しか出ない。
あなたならどう言いますか?
 
 ・「あらすじは覚えたんだから、そこから細かいところを覚えよう」
 ・「あらすじは覚えたんだから、細かいところは覚えなくても、考えればわかるはず」
 ・「あらすじにこだわった自分が悪かった。一番好きなシーンから覚えよう」
 ・「覚えなくてもそれが君の個性。あとは自己責任で」
 
さらに、心情問題でも困った事に。
これは、記憶問題ではなく、思考問題だ。
しかし、生徒の思考はいろいろである。(育った文化が違うのだから。)
オーエド国出身のA君は、「イヌ・サル・キジの主君に仕える気持ちがすばらしい」と言う。
すると、オイロパ国のB君は、「主君に使える気持ちではなく、あれは友情だ」と言う。
キビダンゴは友情の証なのだ、と。キビダンゴで命をかけるはずはないだろう、と。
すると、ベー国のC君は、「あれは契約にすぎない。契約に使われたキビダンゴの価値を
 第3者が推し量っても意味がない。もちろん、契約者の気持ちなんかわかりようがない」と言う。
さて、あなたはどうしますか。
 
 ・「とりあえず、試験で合格が取りやすい解答を覚えよう」
 ・「みんな違ってみんないい」
 
 
・・・少し遊びすぎたかもしれない。
ニーホン国の話はこの辺にして、日本国の話に戻ろう。
 
普通に(少なくとも昭和時代に)育った日本人なら、桃太郎の話をソラで言えると思う。
それについて語ることもできると思う。
で、たとえば「数学が得意」と言う人は、「数学を桃太郎のように語れる人」だと思う。
もちろん、数学でなくても、同じである。
 
と言うことは、「桃太郎」は我々の得意科目ということになる。
それなら、「如何にして物語・桃太郎を、我々は得意科目にできたか」を考えれば、
数学や物理を得意にする方法のヒントが見つかると、私は信じるのである。
さて、我々が桃太郎をソラで言えるのは、どうしてだろう。
我々の先生は、ここまでに示した選択肢のどれ(あるいは別の選択肢)を選んだのだろうか。
 
たぶん、続く。
と思ったけど、終了します。
我々に桃太郎を教えれてくれた「先生」は、お父さんやお母さんたちでしょう。
そして、桃太郎を語るお母さんたちに教育戦略なんかなかったんじゃないかと思うのです。
何があったかというと、ただただ「愛ある繰り返し」だったのではないかと。
 

仮想授業

あなたはニーホン国(日本によく似た、仮想の国)の「外国人を教育する先生」である。
ニーホン国では、外国人に古来の物語を教え、彼らに試験を行い、成績が良ければ合格、
悪ければ母国に強制送還、、、となっていたとしよう。
物語はたとえば「桃太郎」で、「おばあさんは川で何をしていましたか?」とか
「桃太郎の家来は何でしたか?」とか「鬼の罪は何でしたか?」とか
「桃太郎に倒されるときの鬼の気持ちはどうでしたか?」などが出題される。
もちろん、鬼の気持ちなどは物語にないので、物語の展開にあった推測を「正しく」語ることが
できればよい。
 
まず、「桃太郎」を教える。
で、生徒(=外国人)に読ませてみると、全然読めない。
聞いてみると、「洗濯」とか「お供」などという単語がわからないという。
「きびだんご」とか「鬼が島」のような、日常会話に必要かどうかわからないが、そういう
特殊な単語でも悩んでしまうらしい。
 
さて、みなさんなら、どうしますか?
普通に考えられるチョイスは以下のようなものだろう。
 
・桃太郎は横に置いて、出てくる単語の解説をがっつり先にする。
・桃太郎を読みながら、出てくる単語の解説を相応にする。
・もっとやさしい物語を読ませる。
・単語の意味はなるべく軽く解説し、何度も読み聞かせる。
・単語の意味は解説せず、何度も読み聞かせる。
 
ここで、議論してもはじまらないので、「桃太郎を読みながら、出てくる単語の解説をする」を
選んだとしよう。
そうして、ゆっくり最後まで読んで、生徒に聞いてみると、ほとんどの生徒が「全然わからない」
「内容を全く思い出せない」などという。中には「わかった」という生徒もいるので、
「じゃあ、みんなに説明してください」と言うと、「桃太郎には3匹の子ブタの家来がいた。
 みなで協力して狼をやっつけた」などと言いだす。
(「違うよ」と言うと、「そんなはずはない」と言いながら涙目になったりする。)
 
さて、みなさんなら、どうしますか?
 
これは、数学を教えるときに起こることをたとえ話にしているのである。
(英語の授業のたとえ話と思った人、手を挙げて。それでもいいですが、数学も同じなのです。)
続く。
 

勉強を続けさせる方法案6

(今日の副題:教科書の道、教科の中の道)
普通の教科書は、はじめからおしまいまで真っすぐ読むように書かれている。と思う。
それは、その分野の内容を紹介するための「ひとつの道」だろう。
 
それでは、それ以外に道はないのだろうか。
と言うと、たいていの場合は、答は「ある」だと思う。
しかし、教科書を書くのは専門家であり、専門家が選んだたったひとつの道には、
大きな意味があると思うべきだ。
(ここで「たったひとつ」と言うのは、ひとつの教科書にはひとつしかあり得ないから。)
素人が、やみくもに道を外れれば、迷ったり、遭難したりする可能性が高い。
したがって、教科書の指示を簡単に無視することを、あまり勧められない。
 
しかし、通常、学問の分野は「一筋の道」のようになっていないと思う。
「道」のアナロジーを使うなら、たくさんの道があって、大きな幹線道路もあれば、
裏道もある。それらが、(少なくとも素人目には)複雑につながっていたり、
つながっていると思ったら切れていたりもするだろう。
これは、たとえば、マイン〇マップなんかがそれの一部を表していると思う。
(マイ〇ドマップは、ループ構造ないように見えるので、すべてではないと思う。
 しかし、「道が1本でない」ということは、うまく表していると思う。)
 
したがって、その「教科」を学び終わったときには、教科書に示された「ひとつの道」は
おそらく幹線道路だったり、あるいは、いくつかある主要道路の1本だったり、
あるいは、案外ちょっとした普通の道だったりするのだろう。
つまり、あくまで、「ひとつの道」であって、「唯一の道」ではなくなっているだろうと思う。
 
そういう状態になることがわからない人には、勉強が難しいのではないかと思う。