ノートに点数

少なくとも私の子供たちが中学生のとき、ノートに点数がついた。
(たぶん、今でも、そしてこれからもそうではないだろうか。)
 
そのココロは、「テストで良い点を取れなくてもがんばったなら加点するよ」だろう。
ここで「がんばる」とは「きれいなノートを取る」である。
一部の(多くの?)人には大変受けの良い「教育」だが、私は、これは子供たちに
とても有害なメッセージを送っていると思う。
そういうメッセージを全身に浴びて育った人が、「結果はダメでしたが、がんばったので
評価してください」と自ら言うような人になっても不思議はあるまい。
彼らがしていることは、「正しい努力」ではなく、「辻褄合わせ」ではないだろうか。
 
「テストの点を度外視してきれいなノートを取る」ということは、学問の方向での
努力とは言えない。
「先生の気持ちを察して、先生に評価されるような態度を取ることを学べる。
 将来のサラリーマン生活には必須事項だ」と大真面目に言う人もいるが、論外だろう。
しかし、その「論外」が本当に実行されているのである。
 
「ノートがきれいでもテストで良い点を取れなければダメなんだよ」と教えるべきである。
(本当に努力しているのに点数が上がらない子がいたら、一緒に泣いてあげ、次に、
 一緒に方策を考えてあげるのが、正しい大人の行動だと思う。)
 

勉強を続けさせる方法案5

そもそも、「勉強して楽しい」という環境をなるべく作りたいのだった。
勉強して、
 
・「わかるぞ」という気持ちを持ってもらう。
・「自分はできるぞ」という気持ちを持ってもらう。
 
であると。
 
それが、「例題の繰り返し、暗記」でそうなるのか?
「おまえこそ教育をしたことがないんだろ?」という声も聞こえてきそうである。
 
実際、これは試したことがない。
私自身にも、子供たちにも適用していない。
 
が、私自身の経験の中にあるものを抽出して、精製するとそうなるかなと思うのである。
 
「わかる」という気持ちになってもらうために、いくつか賛成できない工夫がある。
一部は「ゆとり教育」で使われ、一部は「アクティブラーニング」で使われそうなものだ。
 
・与える問題をとてもやさしくする。
 たとえば、誰でも100点取れるテストを出す。
  → 生徒に達成感はなく、結局「解けるべき問題」が解けるようにならないから、
    生徒があとで絶望的な気持ちになると思う。
 
・勉強のような作業をやらせてほめる。
 たとえば、「ノートを取らせて、それに点数を与える」など。
  → ノートがきれいでも、調べ学習で立派なまとめを作っても、
    とにかく先生が言ったとおりのことをしても、勉強じゃなければ、
    「解けるべき問題」が解けるようにならないから、(以下略)。
 
・みんなで話合い、教え合わせる。
  → ・・・(略)。
 
・テストの内容を本質的に変える。
  → 俗にいう「ゴールをずらす」というやつですね。
    ずらしたゴールに意味があるなら良いですが、誰もその意味を知らない・・・。
 
こほん。えーと。
勉強をしたくないのは「勉強がうまくいかないから」であり、「テストで惨敗するのが
事前に目に見えてしまうから」であって、その問題を解決するには、
「勉強ができるようになってもらう」しかないと思う。
たとえば、テストで良い点を取ってもらうのが一番だろう。
ただし、100点取って当たり前のテストでは意味がない。ないでしょ?
 

勉強を続けさせる方法案4

私の案は、次の一択である。
まず、
  
 理屈の説明 → 例題の説明 → 同じ例題を解かせる
 
そして、同じ例題が解けなければ、「例題の説明 → 同じ例題を解かせる」を
解けるようになるまで繰り返すというものだ。
 
こういうやり方を聞くと、瞬間的に感情論的反発をする人もいるようだが、
そういう人とは議論したくない。
 
感情論は別に、多くの先生がこれをやりたくない理由は、これは「しんどい」から
だろうと思う。
この方法を「先生が楽する方法だ。けしからん」と言う人も多そうだが、それは、
教育をしたことがない人のセリフだと思う。(100マス計算の批判者にも多い。)
 
教室にはできる子もできない子もいる。
その子たちにこれを実施すれば、できる子は一発クリアでどんどん進み、
そうでない子は同じところを何度も何度も何度も何度もなん・・・。
そうなれば、教室は荒れるだろう。
できない子の中には、ぶーたれて何もしなくなる子も多数出てくると思う。
そういう子の親からの突き上げもすごく怖い。
 
そして進度がバラバラになったら、先生は何をすればよいだろう。
こうなると、個別指導塾の先生みたいになりそうである。
しかし、おそらく、「先生になる人」というのは、「教室で目を輝かせている
子供たちに授業をするのが好きな人たち」だろうと思う。
そういう人にとって、上記のやり方は、ヤリガイがなさそうでもある。
 
それでも、このやり方はやってみる価値があると思う。
(そもそもやる価値のあることは、普通、困難が伴うものである。)
ただ、上に書いたように、教室で実施してくれる先生は少なそうである。
ならば仕方がない、塾か家庭でやるしかないだろう。
もちろん、私のおススメは、塾より家庭である。
 

勉強を続けさせる方法案3

子供が勉強をやめてしまう理由を考えていて思った。
「それって、昔、ずいぶん考察したことだった」と。
そこから、4つのフェーズ理論を考えたのだった。
しかし、ここでその話は繰り返すまい。
 
具体的方法として提案したいのは、
 
 子供にスタート(の位置)とゴール(の位置)と、そこをつなぐ道筋を明示し、
 きちんとその道筋をたどらせ、覚えさせる
 
というものである。
 
つまり、数学で言えば(実は、数学が一番、方法論的に簡単である)、
例題を示し、解き方を示し、繰り返させ、覚えさせるということだ。
(アクティブ〇ーニングなんか〇くらえである。)
 
この話も絶対過去にしてると思う。
が、まあ、いいじゃん。それが老人というものである。
 
さて、上のように言うと、必ず次のような反論があると思う。
 
「例題だけをやらせる?それじゃ、創造性や独創性が育たないよ」
 
創造性や独創性があっても例題ができない人は将来困ると思う。
例題っていうのは「例」なんだから。
 
「例題をやらせるのもいいけど、その先も考えなきゃ」
 
言ってることは至極もっともである。
しかし、私の経験では、こう言う人ほど「その先」を考えてない。
 
例題はそこそこに切り上げて、つまり、基礎も固めないうちに
応用っぽい何かを見せて、「さあ、あとは君たちが自分で考えなさい」的な
ことを言うのである。
「その先」は生徒が自分で(つまり、自己責任で)考えるものだから、
「先生」である自分は考えなくてよい。いや、むしろ考えて生徒に影響を
与えてはいけない。もっと生徒を信頼しましょうよ。と。
 
これは、ただ、生徒に丸投げしているだけだと思う。
 
思うに先生の側に「あまり例題解きを中心にしたくない」という気持ちがあるのでは
ないだろうか。
まず、「生徒に責任丸投げ」と言ったが、誠実な気持ちから、「例題が解けるだけでは
だめだろう」と考える人は多いと思う。
かつての私(アルバイトの塾講師の私)もそう思った。
しかし、繰り返すが、例題も解けないようでは、何も解けないのだ。
そして、(高校か大学教養、その程度までの学習の結果の)応用力とは、実は、例題を
解くことから生まれると、今の私は思っている。
(大学教養以上の応用力というなら、それは、大学の研究室に入ってからとか、
 社会に出てからの話で、ここでは論じない。)
 
しかし、そういう真面目な気持ちもありながら、それとは別の、もっと現実的な理由で
「あまり例題解きを中心にしたくない」という先生は多いような気がする。
ただし、「中心におく」は、主観的にではなく、本当に上記のように、「繰り返す」
(できるまで繰り返す)という意味である。
 
たとえば、
 
 理屈の説明 → 例題の説明 → 基本問題を解かせる → 応用問題を解かせる
 
というサイクルがうまく機能するなら、それでよいと思う。
実は、昭和はずっとこれだった。
これが、昭和時代にうまくいっていたのかいっていなかったのか、議論しない。
しかし、平成の今には、「難しいこと」のようである。
(アクティブラーニングの人たちのひとつの動機は、それだろう。
 しかし、それなら、どういうサイクルを考えているのだろう?私にはナゾでしかない。)
 
平成も終わろうという今、私が提案しているのは、まず、
 
 理屈の説明 → 例題の説明 → 同じ例題を解かせる
 
として、同じ例題が解けなければ、「例題の説明 → 同じ例題を解かせる」を
解けるようになるまで繰り返すというものだ。
(もちろん、人によって繰り返しの数が変わってくるだろう。それが最大の難関だ。
 それから、「例題の説明」は壊れたレコード(昭和の表現)のように同じ説明を
 繰り返す場合もあるだろうが、状況に応じて変えることもあるだろうと思う。)
 
補足:
読み直して、今更気が付いたのだが、私が提唱しているのは、たぶん「公〇式」に
大変似たもののような気がする。
私も子供たちも〇文式をやっていないので、絶対ではないが。
 
伝え聞く話から推測するに、私は、公〇式はひとつの正しい勉強法(勉強させ法)だと思う。
もし、「良い例題」がたくさんあり、中学生以上をちゃんと教えられる「教員」がそばにいて、
自習時間をたっぷりとりながらも、その教員が指導しているなら、私が思う所の理想に
かなり近いだろう。
ただし、リアルの公〇式で、教員と教員の指導がどうなっているのかわからない。
ので、「理想にかなり近い」とは、あくまで「仮定付きの話」である。
 

勉強を続けさせる方法案2

なんにしても、「勉強して楽しい」という環境をなるべく作りたい。
「楽しい」とは、この場合、「自己肯定感」に他ならない。
(他の「楽しみ」は、ほとんど役に立たないと思う。)
勉強して、
 
・「わかるぞ」という気持ちを持ってもらう。
・「自分はできるぞ」という気持ちを持ってもらう。
 
である。
 
もちろん、簡単ではない。
いや、むしろ、「簡単ではない」ということをまず確認すべきである。
「簡単にできる」と言う人がいたら、私なら、距離を取る。可能な限り長〜い距離を。
 
思うのだが、「生徒・子供にも覚悟してもらう」ということも必要な気がする。
私は勉強は楽しいと思う。
しかし、ただ楽しいだけではない。
それなりに大変でもある。
野球部員は野球が好きで野球をやっているはずだが、楽しいだけではあるまい。
何か意味のあることをやるには、困難だってあるはずなのだ。
 
ここで、困るのは、ヘンなことを言う方がいる場合だろう。
「君たちは君たちのままでいいんだ。英語が嫌いか?いいんだよ。それが君の個性だから。
 そんなことは気にせず、好きなことをどんどんやってみよう。人生は楽しまなくちゃ。
 自分が楽しいと思うことだけを、人に笑われても続けていれば、幸せになれるんだ」みたいな。
が、まあ、今時、ここまで無責任なことを言うのは、もう評論家先生くらいだろうとは思う。
が、そういう人がいなくても、今時、「難しいこともあるよ」とは、言いづらい難しいこと
であると思う。
 

やる気教

昨今の日本、特に、若い人とそれに関連している人たちの間に「やる気教」という宗教が
流行しているように見える。
その教義はナゾだが、たぶん、「やる気があればなんでもできる」だろうと思う。
あるいは、「うまくいかないのはやる気がないから」かもしれない。
 
J-POPの歌詞に多い。
漫画にも、そんな感じのが多い。
主人公がやる気を出すと、周りが光り輝いて、敵を一掃したりする。
(私は、宗教全般もJ-POP全般も漫画全般も否定してはいません。ご諒解ください。
 パーマ〇佐の歌を愛し、子供に漫画の読み聞かせをした親です。)
 
これは、昭和の昔からあったとも言える。
「やる気があれば、竹ヤリで重爆撃機に対抗できる」とか。
しかし、今、あまりにも流行しすぎだと思うのだが。
 
昨今のやる気教の流行の背景は、
 
・やる気が出ない人が多い。
・うまくいってない人が多い。
 
だろうと思う。
もちろん、両者は深く結びついている。
しかし、その対策は抽象論で実効性がないものが多い。
(爆弾の雨が降る中、精神力で勝つとか言って竹ヤリ訓練をするようなものだ。)
実効性のない対策は、次第に新興宗教化するのだと思う。
 

補足

数学の先生の中に「生徒同士の話し合い」や「反省ノート」を重視する人がいるようだ。
ガチの部活の場合、試合後のミーティングは意味があると思う。
しかし、基本技術すらできてない子供たちに何を話し合わせるのだろう。
 
それから、「反省ノート」。
基本技術すらできてない子供たちに何を反省させるのだろう。
これは子供たちが気の毒で仕方がない。