子供の勉強に関する思考実験4

「続けられない理由」として4つ挙げたが、他に、
 
 ・親が関与(ハッスル)し過ぎて、子供が疲れてしまう。
 
もあるかもしれない。
しかし、これは、かなり「親の問題」であるので、ここでは論じない。
最後に残ったのが、
 
 ・成果が感じられない。
 
である。
誰にとって、成果が感じられないのかな?
先生はこういうあいまいな文を書く子はきらいですよ。
えーと、それは、まず、子供自身にとって。そしてまた、親にとって。
 
「成果が感じられない」のはどうしてだろうか?それは、
 
 ・成果が実際にない。
 ・成果はあるが見えにくい。
 
であろう。「であろう」って、言うまでもないですね。
前者なら、結局「成果がない」のだから、終了である。
後者なら、絶対がんばって続けてもらいたいものである。
簡単である。のに、簡単ではない。
それは、前者と後者の区別がなかなかつかないからだ。
 
子供は幼少時に、驚くべき成長を見せることがある。
「昨日できなかったことが今日にはできる」とはよく言ったものである。
しかし、いつまでも幼少ではない。
そのうち、「成果が出るまで、かなり長い時間がまんしなければならないもの」に出会う。
また、そういうものにがまんできる人間になってもらわないと困る。
 
しかし、はじめから、子供にそれを要求するのはコクな気もする。
まず、「がまんする」のは大人(子の親)なのだ。
大人が、子供にはよく見えない「成果」を見抜き、子供を励まし続けるのが、理想では
ないだろうか。
 
ところが、問題なのは、大人にも成果が見えにくく、その結果、本当に成果(効果)が
あるのかどうか、往々にしてわからなくなってしまうことだろう。 
つまり、「成果があったのか、なかったのか」の判定をすることがとても難しい、
ということが問題なのだ。
 
たとえば、勉強の場合、成果を客観的に判定するもっとも簡単な方法はテストである。
だからテストは非常に重要なのだ。
私にはテストを軽視する人の気持ちがわからない。
しかし、そうは言っても、テストですべてがわかるわけでもない。
 
「それは、たとえば、他人への思いやり」・・・なんて、話をしているのではない。
私がしているのは、あくまで学力の話だ。
たとえば、数学のテストで100点を取る子は本当に数学ができるのだろうか?
50点の子は数学ができないのだろうか?
実のところ、おおむねそうだと思う。しかし、厳密にそうではない。
たとえば、テストで「数学的発想力の発達段階」を見るのは、なかなか難しいと思う。
 
ここで言う「数学的発想力」とは、限られた天才にしかない特殊能力のことではない。
それはこのブログの主題ではない。
ごく普通の人が、ちょっとした問題を、数学的に考え、解決していく能力のことだ。
たとえば、同じ「数学のテストが50点の子」でも、考え方がまるでできていないのか、
計算力がないだけなのか、判定が(普通の人には)難しいと言っているのだ。
また、「数学のテストで100点の子」も、テストの問題が、たまたま解き方を暗記した
ものだったのか、どうか。
 
言い直してみよう。
たとえば、子供に数学の勉強を継続的にさせて、毎月テストを受けさせる。
先月は50点だったのだが、今月は80点になった。
あるいは、先月は80点だったのに、今月は50点になった。
これらの点数には大変大きな意味がある。決して、軽視してはいけないと思う。
しかし、その真の意味を汲み取ることは、とても難しい。
「継続的な数学の勉強」に、成果があったのか、なかったのかを、
テストの点数だけから判定することはとても難しい。
これまでの勉強が正しかったのかどうかを判定することはとても難しい。
私が言いたいのはそういうことだ。
 
「読解力」や「英会話能力」なども、「数学的発想力」と同様だろうと思う。
つまり、見る人が見れば判定・計測できると思うのだが、普通の人には難しい。
しかも、本当に成果が出るまで時間がかかる・・・。
 
なんだかデジャブーを感じつつ、続く。