子供の勉強に関する思考実験3
子供に、「家の周りグルグル」とか「100マス計算」とか「パズル」とか
(まとめて「継続的にさせる何か」とよぶ)をさせたいとして、それがなぜ
なかなかできないか?
それは、「楽しくないから」だと思う。それが楽しくなくなる理由としては、
・成果がない。
・成果が感じられない。
・親が意義を認めない。
・親が意義を認めているように子供に感じられない。
が考えられる。「成果がない」と「親が意義を認めない」は前回考えた。
「親が意義を認めているように子供に感じられない」というのは、
つまり、親が「やれ」と言うだけで、面倒を見ない場合である。
親がどれだけ関与するかによって、子供は、「親がそれにどれくらいの
意義を認めているか」を知ることができるはずだ。
逆に、内心ではどんなに意義を感じていても、表さなければわからないだろうと思う。
もし、親の関与が「口先だけ」とか「たま〜に」だと感じられるなら、子供は、
「この作業には意味が(あまり)ない」と思うのではないか。
それでは「親の関与」とは何か?
これは、家庭の風土にもよると思う。
が、一般的には、
・本気で関心を持つこと。
・それを言葉にすること。
・継続的に励まし続けること。
・子供の努力を認め続けること。
・親がちゃんと自分の時間を使うこと。
ではないかと思う。
このように親が関与することは、子供の自主性に悪いだろうか?
確かにやりすぎればそうなると思う。
しかし、すべてを自主性に任せるなら、最初から「やれ」とも言うべきではない。
「やれ」と言うからには、なんらかのフォロー(=関与)が必要だと思う。
それはいつまで? → 子供が自主的にやりはじめるまで。
それはどのくらい? → とてもたくさん。
だと思う。
思えば、子供が生まれてから、ミルクをあげたり、離乳食を食べさせたり、
おむつをはずしたり、言葉を教えたり、つかまり立ちをさせたり、
公園デビューをさせたり、ものすごい労力を投下してきた。
(ま、主に母親の労力かもしれないが。)
小中学生における勉強の習慣(や運動の習慣)付けだって、同じくらいの労力をかける
ことに何の問題があろうか?
どうせ、高校生になったら、もう親の言うことなんか、まあ聞かないんだから(涙)。
最後に残ったのが、「成果が感じられない」であるが、続く。