「つかんだ」ということ(子供編)2

たとえば、数学で一次方程式を立てる。
(中略)
そういうことは、普通は、まあ、習わなければできないことだろう。
しかし、そういうことは、当たり前になるべき(はず)だと思う。
と書いた。
 
それでは、そうなるために、親や先生に、することがあるだろうか。
私はあると思う。
それは、一言で言えば、
 
  解法を覚えさせるのではなく、子供がそういう考え方を
  身につけるのを手伝う
 
ということだろう。
 
が、そう言ってしまえばおしまいだが、しかし、「解法を覚える」
のと「考え方を身につける」の違いはなんだろうか。
何も覚えていなければ、何も考えることはできない。
どこまで覚えさせればよいのだろうか。
 
ここで、なぜ、「解法をすべて覚える」のはいけないのかを考えたい。
 
何より気になるのは、創造性の問題だ。
「考える」ということを「解法を思い出す」あるいは、
「解法を検索する」と同じことだと思わせてしまったら、
それはおそろしいことだと思う。
 
ただ、それは、私が理数系人間であり、「理数系の考え方」に
どこか神聖なものを感じるからかもしれない。
「覚えようが、考え方を身につけようが、受験さえクリアできれば
いいじゃん」という考え方もあるだろう。
 
その場合でも、効率の問題がある。
「世の中に存在するすべての問題」の解法・・・などとは言わない、
「人生で出会うであろう多くの問題」に限定しても、その解法の
すべてを覚えるのは無理、もしくは、できても効率が悪いと思う。
一つの考え方を身につけることで、多くの問題が解決できるなら、
効率もよいだろう。
 
実際、「数学や理科ができる子」は、覚えてもいるが、考え方も
身についていて、はじめて見るような問題(まあ、実際には、
本当にはじめての問題が、そうそうあるわけではない。そんな
気がするだけだが)にも対処することができる。
 
あれ、なんだか長くなったの続く・・・かも。
ただし、驚くような結論は、まったく見えていません。
 
あ、一例をば。
娘と数学の問題を解いていたときの話。
「4人グループと6人グループが全部で10個あって、全部で
 50人いました。4人グループは全部でいくつ」というような
問題を見たとき、娘は、すぐに
「あれ?これ、ツルカメ算じゃん」と言ってくれた。
これは、本当にうれしかった。
前にも書いた話だが、まあ、そういうことである。
ただ、コトは、○○算に限らず、もっと、「1次方程式全体が
まったく同じ問題」だとまで、素直に感じてほしいのだ。