教育のサイクル

一般に、教育には、次のようなフェーズがあると思う。
 
 ・否定(教育的否定)
 ・指示(教育的指示)
 ・評価(教育的評価)
 
否定とは、「それはだめだよ」と言うことである。
「君の考えは間違ってるよ」
「その方法ではうまくいかないよ」
と言う事である。
もし、何も間違っていないなら、いつでも正しい方法を取れるなら、
何も教える必要はないから。
 
「それはだめだよ」は、なかなか、言いづらいものである。
よく、「3回ほめて、1回指導」なんて話がある。(バリエーションもある。)
1回の指導(否定)がしにくい、あるいは、教えられる側からすると、
聞きにくいから、そんな方法論が出てくるのだろう。
 
逆に、生徒に
「君は何も間違ってない」
「君は今のままでいいんだよ」
と言うという方法論もよく耳にする。
これは、心が折れちゃった人(折れそうな人)たち向けのセリフだろうと思う。
そういう人には、とても大事な言葉だろう。
 
しかし、それでは、教育ははじまらない。
「君は今のままでいいんだよ」ということは、
「君は今、君の最高到達点にいる。それ以上向上することはないだろうから、
 もう努力しなくてもいいんだよ」ということでもあると思う。
そういう言葉を真に必要としている人もいるのだろうが、
むやみに言うべき言葉でもないと思う。
(ちなみに、妻は、私にそう言えという。
 「もっと掃除をしろ、とか、もっと料理をおいしくしろ、と言ってはいけない
  ありのままの私のすべてを、そのまま受け入れなさい」と。
 まあ、私は、妻の教育係ではないので、そう言うことにしている。)
 
もちろん、「否定」をして、そのままではいけない。
次に、「じゃあどうすればよいか」を教えなければいけないのだ。
 
昔の映画などでは、大先生が、ちょっとした勝負に勝ったぐらいで得意満面の生徒に
「大バカモノッ!」と一喝し、生徒が「先生っ、何がいけないんですかっ」と言うと、
大先生は「自分で考えよっ」なんて言うシーンが、よくあった。
生徒は、はじめ反発し、それから、考え直し、最後に先生の真意を知る、という。
 
なかなか感動するし、今の子供たちにもそういう映画を見てもらいたい気もするが、
まあ、過去の話だろう。
それに、そういうことができるのは、先生がよっぽどの大人物の場合だ。
一般的な先生なら、ちゃんと、「こうしなさい」と生徒に教えなければいけないだろう。
先生が「否定」するだけで、「どうすればよいか」を教えてくれないと生徒は困る。
 
先生が「否定」をして「指示」をして、生徒がその指示に従ったなら、
先生はその成果を評価しなければならない。
もちろん、だめだったら、どこかに反省点があるわけだが、
一番反省すべきは先生自身だろう。
そして、うまくいったなら、生徒をほめてあげなければならない。
それら(の生徒側に与えられる部分)が、「評価」だ。
 
昨今の教育やら若者やらを批判するつもりはないのだが、私には、最近は、
上のようなサイクルをちゃんと踏んでこなかった若者が多いような気がする。
 
あんまりまともに「否定」されてきていないとか。
(私が言いたいのは、「ただの否定」ではなく「教育的否定」だ。)
あるいは、「否定」ばかりされて、「指示」を出されていないとか。
あるいは、「まともな評価」を受けていないとか。
 
上記のサイクルがなかなかうまくまわらないとしたら、それは、
それ自体の難しさがあるからだと思う。
また、個性重視、というか、個性の神聖化や、自己責任の風潮が、
その難しさを増大させてもいるのだろう。