ツォルンの補題

最近、ようやく、堀田良之先生の「代数入門」を曲りなりに読了した。
(章末問題は解いていない。
 また、第5章は、ざっとしか読んでいない。)
本当に、おもしろかった。
杉浦先生の解析入門Iも読んだので、私は、もう大学数学科2年生くらいの
実力があると思っていいのかな?うふふ。(いや、冗談ですって。)
 
それにしても、印象的なのは、ツォルンの補題(そういう「定理」が
集合論というものにあります)だ。
はじめて知ってから、20年以上も、その存在におびえ続けたツォルンの補題
(またの名を選択公理)だが、それがいきいきと活躍しているのをみて、
ちょっと許してやってもいいかな、というか、むしろ旧知の仲のような
気がしてきた。
うん、ツォルンの補題いいじゃないか。
(でも、自分で使う勇気はまだ出ない。)
 
私が大学生の頃、理数系の1年生は、みんな解析と線形代数を勉強していた。
そう、違う大学だった、妻もそうだったという。
それは、なかなか絶妙なカリキュラムだと思っていたが、あらためて
数学を勉強してみると、どうして(ツォルンの補題を含む)集合とか写像
基礎を教えないのだろうと思った。
 
素人のクセに大胆に言ってしまうと、「ツォルンの補題」とは、我々人間が
「無限をどう理解し、扱うか」に関する宣言(の1つ)であろうと思う。
我々が、無限を扱う以上、こういうものは、必要なのだろう。
 
それつけて思い出されるのは、「針の上の天使」の話だ。
昔、ヨーロッパの賢人たちは、「針の上で最大何人の天使が踊れるか」を
真剣に議論したらしい。
これは、一般には、「昔の人のおろかさ」の例として引用されるようだが、
実際には、昨今のスピリチュアルな人たちより、はるかに論理的な議論
であったようだ。
そもそも、天使が実在するなら、「それが針の上で何人まで踊れるか」は
十分意味のある問いになる。
逆に、この問いを一瞬で無意味にする方法は、「天使なんていない」と
言うことである。
 
天使がいるかどうかはおいといて、人間が「無限なんてない」と思えば、
ツォルンの補題やら何やらは不要になるのだろう。
「だから、無限なんかない。それは、ただの妄想だ。妄想の世界に秩序を
 つけて思考を極めたいならそれもいい。でも、それは現実の世界とは、
 なんの関係もないんだ」と言えたら、その方がすっきりするような気もする。
 
が、我々人間は、いたるところで「無限」を考える。
たとえば、「実数」には、おそろしく複雑な「無限」が入り込んでいる。
解析学で勉強したはずだが、まったくわかっていなかった。)
だいたい、「自然数からして、終わりがない。
つまり、「無限」は、少なくとも人間の中には、ある。
(そう言うと、「天使」も、少なくとも人間の中にはありそうだが。)
 
そうである以上、無限を正面から取り扱う勉強をしておいてもよい。
と思ったのだ。
(数学以外の分野で役には立たなそうだけど。
 それに、解析であれだけ落ちこぼれを出しているんだから、目も
 あてられない惨状を生むかな?)
 
次は、昔買って読んでいない、マリツェフ先生の「線型代数学」を読もうかな。