「べき論」と「である論」

恥ずかしながら、職場で、小さな対立の当事者になってしまった(ようだ)。
 
世の中には、「べき論」と「である論」があると思う。
「べき論」とは、「○○は△△であるべき」という論だ。
たとえば、「従業員は一生懸命働くべきだ」などという論理だ。
一方、「である論」とは、「○○は△△である」からはじまる論だ。
たとえば、「市場にはそのような需要はない(のである)。だから、そこで
がんばっても意味がない」などという論理だ。
これらの論理は決して矛盾するものではない。
むしろ、理想的には、お互いに補完しあうものだろう。
 
しかし、現実には、「べき」と「である」のどちらに軸足を置くかで、
ずいぶん違った結論になることが多い。
「べき論者」は理想主義者・急進派、「である論者」は現実主義者・漸進派という
ことができるかもしれない。
 
で、私は、職場では、「である論者」である。
あるサービスを拡大するかどうかで議論があった。
私は、「お客さんの一部にそのようなサービスを期待する人がいることは確かだが、
全員が望んでいるわけではない。コストパフォーマンスを考えると、そのサービスの
拡大はしない方がよい」と主張した。一方、ある人は、
「そのサービスを拡大すれば新たな需要につながるはずだ。
 そもそも我々はお客さんにサービスを提供するべきなのだ」と主張した。
私は、一般論として、「べき論者」が嫌いではない。
むしろ、そのような人がいなくなってもらっては困る。
また、その「ある人」は、個人としても、信頼している。
 
が、どうも、人間関係としてこじれてしまったようである。
憂鬱である。
 
ところで、私は、家庭では、バリバリの「べき論者」だ。
「子供は勉強するべきである」とか。
それはそれで、気をつけなければいけない。...のだろう。