小説について

教育の「国語の先取り学習・先行体験」で書こうと思っていたのだが、あまりにも
まとまらないので、「雑談」で。
 
私は、何度か、「最近の小説には好きになれないものが多い」とを書いてきたが、
よく考えてみると、もともと小説は、あまり好きではないのかもしれない。
SF小説は大好きなんだけど。)
そんな話も、あれこれ、とりとめもなく。
 
小学生のとき、中学受験塾で、夏目漱石の「行人」を読めと言われた。
内容はまったく思い出せないので、読まなかったかもしれない。
伊豆の踊り子とか雪国とかも小学生で読まされたが、内容は思い出せない。
 風の又三郎は、「おもしろくなかった」という印象だけ残っている。
 今思うと、ずいぶん読まされたもんだ。)
ただ、そのときの国語の先生は、確か、大学生のアルバイト先生だったが、
「たぶん、行人は、全然おもしろくないと思うよ。でも、おもしろくないものを
 一生懸命読んだら、きっと、いい事があるんだよ」と言った。
行人自体は、ホントに、どうなったんだか思い出せないのだが、この言葉は、
深く深く私の中に刻み込まれ、小説に限らず、いろいろな事で私の人生に
影響を与え続けている。
 
高校生のとき、友人と小説の是非を議論したことがある。確かにある。
友人は、「言いたいことがあるなら、論説文にしてはっきり主張すればいいのに、
なんでわざわざ物語にするのか。小説を読むなんて時間の無駄」と主張し、私は、
「小説には小説のよさがある」と主張したような気がする。
が、大昔のことで、なんだか、よく思い出せない。
もしかすると、私が小説を否定し、友人が擁護していたのかもしれない。
 
(少なくとも)最近の小説(あんまり読んでないのだが)の中には、
「読者を泣かそうとする意図」を感じるものがある。
そういう小説は、どんなに立派そうでも、ポルノ小説と同じだと思う。
ポルノ小説に存在価値があるように、「泣かせるための小説」にも存在価値は
あると思う。ただ、そういう小説を、わざわざ子供に読ませなくてもよいと思う。
 
最近の人気小説(ライトノベルではない)の中に、本当に嫌いなものがある。
要するに、作家が嫌いなのだが、その理由は、もしかすると、不当かもしれない。
が、それでも嫌いなのだ。
私が嫌いでも、人気があり、中学入試問題なんかにも多数出題されている。
納得がいかない。
 
ライトノベルと言うと、先日、本屋さんで、有名なライトノベルの平積みを前に、
女子高生たちが話しているのを聞いた。
「なんかさー。最近の男子って、こういうの好きだよね。なんでだろうねー」
「ほんとだよねー。ほかに好きなもんないのかって感じだよねー」。
 
最近、「曲芸師ハリドン」を読んだ息子の、最初の反応には驚いた。
ハリドンは、親のいない少年曲芸師で、普段は、大道で芸を見せ、見物客が紙箱に
いれたお金で生活をしている。
息子は、ハリドンのそういう生活に、リアリティを感じなかったようだ。
まあ、途中から、犬が話し出す小説でもあるので、どの辺からリアリティか難しい。
私は、上記の「ハリドンの境遇」にあるような人を直接知っているわけではない。
にもかかわらず、そこにリアリティを感じるのは、「文化的お約束」を知っている
だけなのかもしれない。
そういう「文化的お約束」を学ぶことは、重要だろうか。
(ついでに言うと、「曲芸師ハリドン」では、野良犬が重要な役割を果たす。
 「野良犬をどう思う?」と聞いたところ、「見たことない」。
 そ、そうだよなー。)
 
私は、子供の頃、次郎物語を一生懸命読んで、おもしろかった気がする。
しかし、「生後間もなく里子に出され、生家に戻ってからは、母、祖母に疎まれ、
兄弟となじめなかった」なんていう設定に、今の子供たちは、リアリティなんか
感じないだろう。
逆に、最近の小説(上記の「嫌いなもの」ではない)の設定は、最近の人間関係を
反映しているようだが、私には、「目を背けたくなる」ようなものも多い(?)。
少なくとも、我が子に読ませたいとは思えない。
しかし、次郎物語の設定も、「目を背けたくなる」と言われれば、そうかも
しれないし、「泣かせるための設定」と解釈されるかもしれない。
(実体験に基づいている...らしいのだが。)
 
小説は、ウソの世界だ。
どんなに巧妙に作られていても、作り物であり、ウソがあるはずだ。
それでも、もちろん、価値はあると思う。
けれど、どれくらいの価値だろうか。とも思う。
 
今朝、妻が、「小説を読むと、自分が体験できない人生を体験できる」と演説。
なるほど。と思った。