知識・技能・思考力

国語の考察は、もう少し(かなり?)、あとで。
今日は別の話。
 
よく「知識と知恵(たぶん、総合的な思考力)は違う」などとと言われる。
これは、「知識」を低く見、「思考力」を高く見るということだろう。
そのご意見は、ごもっともである。
誰でも、自分の子供に、「知識だけは豊富にある、が、思考力はない、
自分で発想することはまったくできない人間」にはなってほしくないだろう。
私自身、自分に「知識」より「思考力」をつけたいと、渇望してきた。
その希望は、確かに、自分の子供の教育にも継承されている。
知識より、思考力を、と。
  
その方向で考えるならば、まず問題になるのは、「知識を教え込む教育」と
「思考力をのばす(つける)教育」のバランスだろうか。
人間の時間は限られている。だから、すべの教育を行うことはできない。
と、すると、「知識を教え込む教育」の時間を減らし、「思考力をのばす教育」
の時間を増やそうということになるだろう。
 
しかし、最近、少し考えが変わってきている。
 
もちろん、子供たちの「思考力」をのばしてあげたい。
しかし、その「思考力をのばす教育」とは、どんなものだろう。
多くの教育者が、さまざまな「思考力をのばす方法」を提唱している。
そのどれもが、一理も二理もある。と思う。
「ぜひ、ウチの子供にも」と思うものも少なくない。
しかし、それらが、本当に有効であるという証拠はないように思うのだ。
別に、どなたかの教育方法を批判したいわけではない。
ただ、私が知る限り、どの方法も、完璧には見えないのだ。
たとえば、「このような問題を、このようにやらせると思考力がのびる」など
というお話を聞くと、「そういう勉強をすれば、その問題は解けるようになる
だろう。しかし、それで、思考力がついたことになるのだろうか?」という
疑問もわいてくるのだ。
 
歴史上に名を残している人たちは、現在知られている「○○式の教育」
(別に公○式という意味ではありません)か、それと同等の教育を受けたのだろうか。
少なくとも、生い立ちだけ聞くと、「まともな教育は受けてないだろう」と
思われる人が、大変な発見をしていたりする。
「思考力」というのは、本当に、どこから生まれてくるのだろう。
「思考力は、その人に本来的にあるもの、あるいは、生来的に決められている
もので、後天的にのばすことはできない」としたら、どうだろうか。
だとすれば、特別な教育なんか不要ということになるだろう。
 
結局、「思考力をのばす教育」が何かを知らなければ、
「知識を教え込む教育」との時間的バランスなど、考えることはできないのだ。
とすると、自分の子供たちには、自分が信じる教育をするしかないのだろう。
 
根拠はまったくないのだが、私は、最近は、「思考力をつけるのに、特別な
訓練方法があるわけではなく、思考力は、いろいろな勉強の中で、自然に
生まれてくるもの」と思うようになった。
「自然に」などと言うと、何か神秘的な雰囲気に流されそうだが、ここで言う
「自然に」とは、「教育者側はコントロールできない」という意味にすぎない。
自分の子供たちを見ていて、そう思ったのだ。
 
もちろん、それでも、「思考力をのばすのに効率的な方法」というものは
あるだろう。たとえば、「○○式の教育」とは、考案された方が、ご自分の経験
から、「効率的な方法」を見つけ出したものだろうと思う。
それらは、考案者の豊富な経験を基にしているので、うまく当てはまる子供は、
たくさんいるだろう。
しかし、そうは言っても、万人に同じ効果をもたらす教育でもないだろうと思う。
だから、「自分が信じる教育をするしかないのだろう」となるのだ。
(もちろん、「自分が信じる教育として、○○式を採用する」という選択も、
 大いにあると思う。繰り返すが、子供にあってさえいれば、賢い選択のはずだ。)
 
私は、たとえば、従来「知識を教え込む教育」と考えられている方法にも、
思考力をのばす要素があるのではないか、と思う。
それは、教育を受ける子供の性質と、教育を与える側の工夫次第ではないだろうか。
 
実は、私が、最近、「思考力をのばすのに有効ではないか」と強く思うようになった
のは「技能教育」だ。この「技能教育」とは、小学校で言えば「分数の計算練習」とか、
中学校で言えば「文字式の計算練習」などのことだ。根拠はほとんどない。
そして、「知識と知恵は違う」などと言う人の多くが、もっとも反対しそうな話だ。
 
思考が続けば続く。