教育の目的

教育の目的は何か。
という質問があるが、このような質問は、「誰にとって」を言わないと意味をなさない。
その「誰」に、子供、親、教員、学校、社会、国等が入るわけだ。
そのように「誰」を決めて、議論したとして、社会的なコンセンサスはないように思う。
このような状況にあれば、「公教育は最低限のことしかしない。あとは、親がやってくれ」という
発想が出てきても不思議はない。(これこそが、寺脇氏の「ゆとり教育」であるように思う。)
学校関係者にそのような意図がなくても、結局、そういうことになるのではないか。
  
このような状況を覆す方法を、私は思いつかない。
故に、この状況下で生きていく方法を考えるしかない。
 
それは、「自分の子供にとっての教育の目的は何か」を、親が考え、その目的の達成のために、
学校が与えてくれるものと学校が与えてくれないものを把握し、学校が与えてくれないものを
どうやって与えるか考えなければならない、ということだと思う。
これは、学校教育を低く評価しているのではない。
学校の教育は、官製(文部科学省製)の価値観に基づく集団教育である。
官製の価値観は、若干、教員の嗜好で改変・修正されるかもしれないが、いずれにしても、
学校の教育は、自分とは違う人の価値観に基づく集団教育なのだ。
集団教育には集団教育のよい面があると思う。が、それだけでは足りない可能性も高い。
足りければ、自分で補わなければならないのだ。
 
実際には、「何が足りないか把握し、足りないものをすべて自分で補う」なんてことは、
普通の人にはできない。(私も普通の人であり、やっぱり、できない。念のため。)
そのために、子供を塾に通わせるなどということが盛んになっていく。
これは、「学校が与えてくれないもの・学校教育では足りないものを、判断し、与えて
くれる専門家を雇う」ということだろう。
もちろん、「より多くのものを与えてくれそうな私立学校に子供を入れる」ということもある。
ただ、いずれの場合でも、何が足りていて何が足りないのかの基準、つまり「教育の目的」は、
塾の先生でも学校の先生でもなく、親が(大きくなったら「自分」だが)決めなければならない
のだと思う。