アクティブラーニングの恐怖4

「学力上位層は何をしても大丈夫」という話がある。
私は賛成できない。
 
サッカーが好きな子供がいたとしよう。
 
その子がサッカーを教えてもらえるはずの学校に行って、こう言われたらどうだろう。
「君、サッカーうまくなったね。じゃ、あとはあっちで、ひとりで練習してて」
「サッカーのできない子がかわいそうだろ?できる子はちやほやされて楽しいんだから、
 せめてできない子のことも考えてあげようよ」
「どうしても高度なサッカーをやりたければ、ジュニアチームに入りなさい」
サッカーを勉強、ジュニアチームを塾にすると、私の子供時代の学校にありがちな話になる。
(実際の先生がこんなひどい口調だったわけでない。
 ただ、そういう意味のことを言ったということだ。以下も同様である。)
 
では、こう言われたどうだろう。
「サッカーは、技術がうまいだけじゃ、だめなんだよ」
「学校外でテクニックを習って、それでうまくなったって、それはズルだ」
「サッカーが下手でも、サッカーに熱意を持っている人が報われるべきなんだよ」
「ドリブルについてレポートを書きなさい。さぼったら、どんなにうまくても試合に出さないよ」
(プロ選手のドリブルについてのレポートなら意味があるかもしれない(知らない)が、
 子供たちの、しかも、そもそもサッカーが嫌いな子も含めた子供たちが書くレポートであり、
 枚数やきれいさ(ときに、色鉛筆を使ったかどうか)が評価の基準になる。)
これが、ゆとり教育だった。
 
アクティブラーニング時代がどうなるかわからない。
でも、次のようなことはないだろうか。
「私は教えないよ」
「サッカーは、みんなで話し合い、教え合うべきだ」
「そうして出した結論から私も学びたい。みんなで学び合おう」
「うまいかどうかではなく、活発に意見を出した人を試合に出すよ」
 
「アクティブラーニングは、学力上位層に害はない」だろうか?
 
ところで、学力上位層というのは、生まれつき上位なのではない。
さらに言えば、よほど特殊な環境で育ったのでなければ、塾等に行って学力上位になるのではなく
まず、学校(と家庭)で育って学力上位になるのである。
学力が学校レベルでなくなったので塾に行くということはそれなりにあるが、
大抵の順序は、学校→塾であって、その逆はあまりない。
 
ところが、上記のゆとり教育や想定アクティブラーニングをすると、別の方法では学力上位層に
なれるはずだった子供たちが学力上位層になれないということが発生すると思う。
(学力上位層をにくんでいる人たちが背後にいるような気がしてならない。)
それが、本当に嫌なのだ。
 
「別の方法」とは、たとえば、私が受けた学校教育だ。
それは、上記のように上位層には手厚くなかった(ほっておかれた)が、上位になるまでの指導はされたし、
上位になったあとはほっておかれるだけで、干渉はされなかった。
(と、記憶する。「塾で勉強しなよ」と勧められたし。
 ちなみに、私は数学ができたので(笑)数学はほったらかし状態だったが、体育はできなかったので
 大層手厚い指導を受けた記憶もある。ときどきつらかったけど(笑)。)
 
ゆとり教育以降では、学力以外のものが強調されるため、学力向上にならない指導も受けるようである。
「学力向上にならない指導」であって、いつもではないが、
結局、そのために子供たちのものすごい時間が失われるのも事実なのである。