アクティブラーニングの恐怖3

なぜ、ゆとり教育では、「勉強みたいに見える勉強でない作業」が要求されたのか。
それは、「テストが成績評価のすべてではない」をまじめに実行するとそうなるしかないのだ。
 
「テストで良い点を取らない子」にも高い成績評価をつけるには、テストと無関係のことをさせるしかない。
しかも、「テストで良い点を取る子」に有利になるものであってはならない。
実際のところ、学科テストで良い点を取る子は、たいていの知的活動で有利になる。
体育の実技テストで良い点を取る子は、たいていの運動系行動で有利になる。
(テストというのは、学科テストには限らないのだ。)
それを避けようとすると、相当とんでもないことになると思うのだが。
 
しかし、それでも勉強っぽいものでなければならない。
(その理由は大人たちの自己正当化のためでしかないと思うのだが。)
すると、それは、どうしても「勉強みたいに見える勉強でない作業」にしかならないだろう。
実際には勉強ではないのに、勉強っぽく見える(英単語を書くとか、レポートを書くとか)ところが、
むしろ「毒」だと思う。
 
サッカーでもなんでもないことをやらせて「これがサッカーだよ」というのは犯罪だと思う。
数学でもなんでもないことをやらせて「これが数学だよ」というのも同様である。
 
昔で言えば、数学は得意だが体育の苦手な子とか、その逆の子がいて、そういう評価を受けたわけだが、
数学の問題が解けなくても数学の成績の良い子や、体育実技は苦手なのに体育の成績の良い子が作られるようになった。
(まさに、「作られる」だと思う。何らかの操作によって。)
その結果、「優等生」はなんでも成績が良い傾向があり、そうでない子はなんでも成績が悪い傾向があるようになった。
(「優等生」とは「先生の成績評価基準にはからずも合う子」か「意図して合わせられる子」である。)
これは悲劇でしかないと思う。優等生にとっても、そうでない子にとっても。
 
さて、世の中はアクティブラーニングに舵を切ったらしい。
それでも、「テストが成績評価のすべてではない」は変わっていないのではないか?
さらに、今度は、アクティブというところが成績評価になる。
「テストはできないけれどアクティブな子」が高い成績評価を得るような何かが実行されるわけである。