今こそ知識教育を5

ところで、(普通の人には)暗記の勉強はつらい(と思う)。
私にはつらかった。
先生に暗記しろと言われた記憶はあまりないが、暗記しなければテストで点数が取れず、
しかたがないから暗記しようと思うのだが、なかなか覚えられず、きつかった。
そして、よく言っていた。
「本に書いてあることを覚えたってしょうがないよね。
 必要なときに本を見ればいいんだから」と。
たぶん、ほとんどの子供が言っていたと思う。
平成の話ではない、高度成長まっさかりの昭和時代のことである。
 
今、知識教育をやめさせようとしている人たちも、たぶん同じ経験をしているのだろう。
 
しかし、「子供が嫌がること」は「良くないこと」「やらせなくてよいここと」だろうか?
にんじんを食べたくないという子供(アレルギーではないとする)には
にんじんを与えない方がよいのだろうか。
運動を嫌がる子には運動させない方がよいのだろうか?
勉強を嫌がる子には?
ケースバイケースだと思うのだが、たぶん、たいていの場合は、にんじんも運動も勉強も
与えた方がよいと思う。
知識教育も同じだ。
 
ところで、子供はなぜ暗記を嫌がるのだろうか。
それは「情報など簡単に手に入るのだから、それより創造的なことに時間を使いたい」と
思っているからだろうか。
聞けばそう答えるかもしれない。中学生とか。
 
しかし、暗記が嫌な本当の理由は、
 
・退屈
・覚えられない(ような気がする)
 
だろうと思う。
 
さらに、考えてみると、「知識を覚えろ」という指示が「おまえの人格を変えろ」という指示に
なっているからではないかと思う。
まず、「覚えようとする人格」になっていないから、退屈と感じ、覚えられないと感じると思うのだ。
それに、覚えたくないものを覚えろというのは、人格無視と言えなくもない。
(たとえば、ヲタク人格(?)になると、あら不思議、普通に生きててなんの役にも立たない
 ヲタク知識がアレヨアレヨと覚えられてしまうのだ。)
 
ところで(ここでは、変な接続詞?)、私は、講師をしていて、「勉強が苦手な子の多くは、
なぜか自己流にこだわる」と感じることが多かった。
「(君のそのやり方ではうまくいかないんだから)こっちのやり方をやってみてごらん」などと
言っても、自分のやり方を変えない子が多かった。
(丸カッコ内のセリフは、私がよほど意を決したとき以外は、心の中でのみ言った。)
それは、自分の人格を変えたくないということではないだろうか。
 
しかるに、思うに、教育とは「人格を変える」ことであり、生徒が自分の人格を変えることに
同意しないとはじまらないような気がするのである。
それは、とても怖い決断であり、躊躇したり拒絶する気持ちはとてもよくわかる。
教育をする側の人も(善人であれば)、その重さを感じるから、「与える」のではなく、
「生徒の中にあるものを伸ばす」などと言いたがるのではないだろうか。
それは、善意だろうと思う。
しかし、同時に、責任逃れだとも思うのだ。
 
終了。