今こそ知識教育を4

要するに、子供に知識を与えれば、子供はそれを糧に「人格」を作っていくと考える。
それは、子供にご飯を与えると、子供がそれを糧(?)に「肉体」を作っていくのと似ている。
(ご飯がそのまま肉体になるのではないように、知識がそのまま人格になるわけではない。
 が、良い食べ物がなければ良い肉体ができないように、、、と思うわけだ。)
 
知識・・・というと、たとえば、経験知とか暗黙知とか、なかなか高尚(?)そうなものがあり、
「それがほしい」(それを与えたい)と思うかもしれないが、単純な知識を与えることなしに
経験知やらを与えることはできないだろうと思う。
特に現代的な「知性」とは、(主に?)「情報の操作力」ではないか。
アッチの情報とコッチの情報とアノ公式とコノ事実を組み合わせて、、、と。
そういう経験(知性の経験)を積んでおくことこそ、重要であろう。
そういう経験のためには、「操作するための知識(材料となる知識)」が必要なのだ。
 
「材料となる知識」はネットで調べればいいのだから、覚える必要はないだろうか?
材料のことはすっかり忘れて、その材料をどう調理したかだけを覚えておけるのだろうか?
私にはそうは思えない。のである。
(良い料理人は、調理法のことだけでなく道具や材料のこともよく知っているし、
 よく考えているものではないだろうか?)
 
「材料になる知識」自体がその子供の将来に直接役に立つ知識でなかろうとも、ちゃんと覚えさせ、
その操作法を学ばせ、そしてその操作法も覚えさせるべきだと思う。のである。
「材料になる知識」の記憶は、たぶん、丸暗記に近いものになるだろう。
(工夫次第で、丸暗記ではなくなるかもしれないが。)
「操作法」の記憶は、丸暗記と感じられないことが多いと思う。
これは、練習・演習で身につくもので、「知性の経験知」であろうと私は思う。
しかし、それでも、最初にやることは、「単純な演習」であろう。
漢字の書き取りとか、計算練習からはじまるべきなのであって、いきなりディベートとかではない。