なぜそんな話をしているのか

知識と人格形成の結びつきをしつこく書いている理由は2つある。
 
ひとつは、昨今の「教育理論」に対する危機感である。
それらの多くは、知識の獲得なしに、あるいは、知識の獲得を軽視して、思考力をのばそうと
するものに見える。
私には、それは不可能に見えるのだ。
 
知識にもいろいろあって、単純な情報から、情報の操作法、発想のモト・ヒント、思考方法すら、
みな知識だと思う。
(たとえば、「こういう問題はみんなで考えた方がよい」も「一人で考えた方がよい」も
 その人が持つ知識である。
 「みんなで考える」か「一人で考えるか」の判断は「思考」と言えるかもしれないが、
 その思考を成立させるには、「経験」などとよばれる「知識」が必要である。)
より欲しいのは、単純な情報ではなく、「ひらめき」の助けとなるような知識(経験知を含む)だろう。
だから、単純な知識は覚えずに、より「深い知識」を得よう、、、となるかもしれないが、
知識を最初から要不要に選り分けるのはかなり難しいと思うのだ。
(正直、個人的には「細かすぎるんじゃないの?」と思う知識もあるにはあるが。)
 
要するに、昨今の教育理論に従うと、「知識がない→思考できない→考えない人格になる」と
いうリスクがありそうで、とても怖いということだ。
 
この点、ア○ティブラーニングなどの支持者は逆に考えているように見える。
彼らは「知識を詰め込む教育を受ける→考えない人格になる」と考えているのではないか。
確かに、知識を詰め込む教育のみを受けたらそうなるかもしれない。
しかし、そういう詰め込み教育はファンタジーの世界にしかないのではないか。
私は受けた覚えがない。見たこともない。聞いたこともない。
ついでに言うと、「知識ばかりあっても自分で考えられない人間はだめだ」ということをよく聞くが、
そういう人も見たことはない。
もひとつ言うと、「勉強ができることより人格が大事」とわざわざ言う人で、尊敬できる人格の人を
見たことがない。(てへ。)
 
もうひとつの理由は、「先生も生徒も暗記学習を嫌う」ということの理由のひとつは、まさに、
この人格形成問題に関係しているのではないかと思うことだ。
実は、メインはこちらである。