今こそ知識教育を3

知識を教える人(先生)とは、「人格の一部を与えてくれる人」なのである。
と書いた。
 
一応言っておくと、「知識を与えることで思い通りの人格にできる」などという恐ろしいことは
言っていない。
 
たとえば、子供に理科教育を行ったとしよう。
その結果、科学知識が豊富な「期待される理系人間(笑うとこです)」になるかもしれない。
しかし、子供が理科知識を拒絶することも当然考えられる。
その結果、「理科の先生の不快さ」や「理科知識の無用さ」に関する知識が豊富になり、
もしかすると、大人になってもインターネットに先生の悪口を書きまくる人になったり、
あるいは、偉くなって教育審議会だかなんだかで理系教育撲滅に加担する人になるかもしれない。
もちろん、理科知識を受け入れたうえで、理科より芸術などを選ぶかもしれない。
 
要するに、子供の人格を操作するなんてことはそもそもできないと思う。
昔、子育て雑誌に、「親はこういう人に育ってほしいと、子供に願うことはできるが、
それが実現されるかどうかは子供の選択である。たいていは、親の期待通りにならない」と
あったが、それが真実だと思う。
 
「知識を与える」ということは、人格形成を操作するということではなく、
人格形成の糧を与えるということだと思う。そういう意味である。
もちろん、知識を与えなくても人格は形成されるだろう。
しかし、私は、知識があって形成された人格の方が良いと思うのである。
また、「知識を得ようとして格闘しながら形成された人格」が良いと思うのである。
 
理由は、「自分や自分が好ましいと思う人たちはそのように見えるから」だ。
 
「知識を与える(教える)」とは、ずいぶん上から目線的な言い方だが、しかたあるまい。
それは
 
・知識を獲得するよう促す。
・その手助けをする。
 
ということである。
それを「たくさん」やるべきだと思うのである。