今こそ知識教育を2(または、我々とは何か)

「知識を蓄えること」と「自動車を買うこと」を同列に扱う人が多いような気がする。
 
自動車はお金で買える。知識もお金で買える。
自動車を持っていると便利。だが、絶対に必要というわけでもない。知識も同じ。
以下同様。
 
「自動車を買った人」と「自動車を買う前のその人」は、たぶん、ほとんど同じ人だと思う。
しかし、「知識を得た人」と「知識を得る前のその人」は、大きく変わっていることも多いと思う。
ここで「同じ」とか「変わっている」というのは人格のことである。
 
厳密にいえば、自動車を買った人は、たとえば、それで自信を得て、人格が少し変わるかもしれない。
しかし、それはたいてい少しだけだろう。
(場合によっては大いに変わるかもしれないが、まあ、それは例外とか「お話の中」のことだろう。)
単純な知識ならば、自動車と変わらないと思う。
 
しかし、たとえば、ある子供が数学ばかり長年勉強する場合と、英語だけを長年勉強する場合と、
また、何も(学校型の)勉強をしない場合とを比べることはできないが、もし比べることができた
とすれば、結構違った人格に育つのではないかと思うのだ。
 
数学を十分長く勉強した人は「数学的な人」になっている可能性が高い。
英語を長く勉強した人は「英語的な人」になっているかもしれない。
つまり、知識と人格は分かちがたくつながっていると思うのだ。
 
ここで言う知識とは、平安遷都の年号もそうだし、2次方程式の解の公式もそうだし、
周期表のスイヘーリーベーもそうだが、平安時代の人々に対する深い知識も、公式のうまい適用方法も
そうだし、また、記述式の問題で答案用紙に何を書けば丸をもらえるかということも含まれる。
また、ヘ〇トスピーチを見て得た感想も、難民のビデオを見て得た感想も含まれる。
当然、自分で考えて作り出した知識もすべて含まれる。
 
思えば、「我々」とよべるもののかなりの部分は、そういう「知識」でできているのではないだろうか。
(「我々は思い出でできている」と言った方がしっくりくる人も多いかもしれないが、同義である。
 「思い出」は知識であるのだから。「思い出」を「経験」と言ってもいいだろう。)
 
だから、はじめに「知識を得ると人格が変わる」と書いたが、本当は、「獲得した知識(の一部)が
我々の人格(の一部)になる」と言うべきだろうと思う。
 
そう考えると、知識を教える人(先生)とは、「自動車を売ってくれる人」とは違って、
「人格の一部を与えてくれる人」なのである。
あるいは、わざとショッキングな言い方をすれば「人格を注入してくれる人」とか。