オーバヘッドとモヤモヤ3

少し違うのだが、少し似ている話をひとつ。
 
私は推理小説が好きなのだが、それについて「ある感覚」がある。
それは「読み始めはなかなかその世界に入っていけず、しかし少し読むとぐっと集中できる」と
いうことである。
たぶん、多くの推理小説ファン(あるいは単に小説ファン)が同じように感じるのではないかと
推測しているが、そうとも限らないので、違う場合は、想像してください。
 
それで、推理小説を読み始めると、はじめはちょっとつらい。
私の場合、モヤモヤというより、イライラ。
しかし、何冊も読んでいるから、「ここを乗り切れば面白くなる」と知っている。
だから、そのまま強引に読み進めることができる。
これは「先が見えているから進める」ということだ。
 
さて、勉強の話。
私は勉強をはじめて感じるモヤモヤの中に本当の勉強があると思う。
そのモヤモヤの先に集中があるかというと、あるけど、推理小説のようではない。
それに、「そのモヤモヤを乗り越えること自体」が大事なことだと思う。
だから、少し違う話なのだ。
 
しかし、そのモヤモヤを超えれば、学力も伸びる。
(テストの点も上がって、とても良い気分を味わうこともできる。)
だから、モヤモヤしてきても、がんばって進めなければいけない。と思う。
だから、少し似た話なのだ。
 
そして、思うのだが、勉強のできる子(申し訳ありませんが、たとえば、私です)は、
そのモヤモヤを乗り越えなければいけない、乗り越えられる、乗り越えればうまくいく
(甘い汁が吸える)ということを、どういう事情かで知っていると思うのだ。
私は、「モヤモヤの中に真の勉強がある」と書いたが、昔からそう思っていたわけではなく、
また、多くの勉強のできる子が私に賛同するとも思わない。
しかし、解釈はどうあれ、「乗り越えなければいけない」ということ、
また、「乗り越えられる」ということを、勉強のできる子は事実として知っているのだと思う。
 
そして、思うのだが、勉強が苦手な子はその事実を知らないのだと思う。
その事実を知らないから、勉強が苦手なのだと思う。
だから、私が指導者になるなら、一番したいことは「この事実を知ってもらう」ということだ。
しかし、これは本当に難しい。
 
説明することはできるし、わかった気になる子もそれなりにいるだろう。
しかし、骨身に染みてわかるだろうか。
「骨身に染みてわかる」とは、本当に勉強のモヤモヤにぶつかったときに、本当に誰に
相談することもなく、当然のこととして、乗り越えようとし、乗り越えていくということだ。
私が推理小説を読み始めた時に感じるイライラを誰にも相談せずに乗り越えていくのと同じだ。
 
推理小説でなければ、私の場合、スポーツが似ている。
まず「やりたい」と思う。
しかし、いざウェアに着替えたりすると「今日はいいかな?」とか思う。
それでもがんばってはじめると、最初はうまく乗れなくてつらい。
でも、続けると楽しくなる。
 
それで、勉強が苦手な子はどうかというと、たぶん、勉強をはじめてなんだか集中できなくて
イライラしたりすると、やめちゃう。とか。
あるいは、たぶん、まじめな子にもっと多いのは、「じっと我慢して進めているうちに、
我慢することが目的になってしまう」ではないだろうか。
しかし、それは違うのである。
ただ我慢しても学力は伸びない。それは勉強ではないのだ。
 
心のどこかで進もうとして感じているモヤモヤ・イライラは勉強である。
しかし、ただ我慢して時間が過ぎるのを待っているのは勉強ではない。
それは勉強ではないモヤモヤだ。
 
大抵の人は、勉強をはじめると、「勉強ではないモヤモヤ」と「真の勉強であるモヤモヤ」に
出会うと思う。
その中で、真の勉強であるモヤモヤに対決できれば学力が伸び、そっちの対決はさっさと
切り上げて勉強でないモヤモヤに進んでいく(たぶん、我慢するというモヤモヤ)と学力が
伸びない、と思うのだ。
 
もうひとつありがちな間違いは、「すっきりする勉強モドキに進む」だと思う。
「解ける(に決まってる)問題をやる」とか「(絶対)覚えていることのおさらい」などだ。
そういうことをやってはいけないとは思わない。ときには必要だろう。
しかし、必要となる割合はとてもとても小さい。
それは、ほとんど時間の無駄使いだと思うのである。
(これを組織的に進めようというのが、アクティブラーニングだと思う。
 その場合、「討論してすっきりする」という勉強モドキに進むのだ。)