考えさせる教育4

私がアクティブラーニングをにくみぬくのは、それが「考える」ということ、
さらに「考えさせる」ということを、あまりに軽視しているからだ。
 
たとえば、「2分毎にペアで話し合う」とか「40分間グループディスカッション」とか。
「そんなんで何か考えられる」と思う発想が、本当に恐ろしい。
それは「考えた気にさせる」だけだろう。
考えた気にさせただけで、それを「考えた」と教えるのは、犯罪行為ではないだろうか。
 
「考える」という行為は、とても難しい。
野球やサッカーなら、試合を見せて「ほら、あれだよ」と言える。
数学や物理の場合、問題を解く姿を見せても、考える姿を見せても、
「実際にどうすればよいか」は伝わりにくいと思う。
(実のところ、野球やサッカーなら正確に伝わると思うのは間違いだと思う。
 本当に野球やサッカーがわかるのは、実際にやってからだと思う。
 逆に、数学や物理を解く姿を見せれば、実は、何か伝わると思う。
 ただ、伝わるものが少なく、「正しく伝わったか」の判定が難しいと思う。)
 
思うに、「考える」には次のような側面があると思う。
 
・何かを思いつく。
・与えられた知識(公式など)を理解する。
・与えられていた知識(公式など)を適用する。
 
別に厳密な分類がしたいわけではない。
多くの人が望むのは「何かを思いつく」ではないだろうか。私もである。
しかし、それは、難しいのだ。
 
「小学生がアクティブラーニングの授業で台形の面積の公式を導いた」なんて話がある。
本当にそうなら、その子たちは天才である。
そうかもしれないが、たぶん、先生が誘導したのだ。それは思いついたとは言わない。
 
大学入試の問題を解いていて、「ひらめいた」という人がいる。
うん。君は天才かもしれないね。
でも、たぶん、すでに習った事の適用方法を思いついただけだと思うよ。
 
すべての子供を天才にする方法があったらぜひ実行してほしいが、それは夢物語だろう。
教育で(特に、マス教育で)できることは、実際のところ、
 
・人類が蓄積した知識(の一部)を理解させる。
・人類が蓄積した知識(の一部)の適用の練習をさせる。
 
だろうと思う。
それが、私の言う「考えさせる教育」だ。
そして、これは、まだ難しい課題なのである。