じゃあ、どうすればよいと思うか 3

漢字や計算というのは、象徴的に言っているのであって、「一生それだけでよい」という
意味ではない。その次もある。しかし、最初に重要なのはそれだと思う。
要するに、
 
  記憶学習と技能練習を重視すべき
 
というのが、私の主張だ。
これは初等中等教育では特にそうだし、高等教育でもそうだと思うのである。
 
たとえば、先生が「このページの漢字を覚えろ」と言い「この計算をしろ」と言う。
生徒たちが一斉に「作業」をはじめる。
あるいは、宿題にするかもしれない。
記憶とか練習とか言うと、結局、同じ事(同じ様な事)を繰り返すのが効率的だろうから、
多くの先生の指示は「できるまで繰り返せ」になるだろう。
 
なんとも個性を無視した、創造性のかけらもない画一的マス教育と思うだろうか。
私はそうは思わない。その話がしたい。
 
まず、大人でも子供でもそうだと思うのだが、同じ事(同じ様な事)を繰り返すと
次第に上達していく人と、次第に雑になっていく人がいる。
それが個性だろうと思う。
上達していく人は、とりあえず、その個性を伸ばしてよいと思う。
雑になっていく人は、困ったもんである。
 
雑になっていく人は、そのまま雑になっていくか、どこかで「これではだめだ」と思って
「真面目」になるか、あるいは、まったく別の方法を考え出して、うまくやるかもしれない。
それこそが個性だろう。
 
「どうにも上達しない個性を発揮した子供をどうするか」は難しい。
しかし、そういう子はそういう個性を持っているのだから、どういう教育方法でも
同様の問題を引き起こすに違いない。
これは暗記・練習重視の教育法の欠陥ではないと思う。
そして、取りあえずは、自分なりに悟ったり、工夫した子供たちを祝福してあげたい。
「真面目な個性」を伸ばしたり、自己を見つめたり、また工夫をこらすことはすばらしく、
それだけでも、この教育は成功していると思うのである。
 
実は、ゆとり教育では、と言うか、ゆとり教育でこそ、「非個性的な作業」が多い。
「真面目に作業したか」という学力とは別の評価基準があるからだ。
それは、(いつも書いているが)中学校で「英単語を5個ずつノートに書く」などだ。
この宿題は本来英単語を覚えるためにやっているのだろうが、実際のところ、
「覚えたかどうか」は問題にならない。
先生は「本当に5個ずつ書いてあるか」をチェックし、それが内申点になる。
 
「覚えたかどうか」はテストでチェックされるのだが、しかし、「覚え方」まで
指定してしまうのは、個性を無視していると思う。
たとえば、「5回書く前に覚えてしまった子が3回で書くのをやめる」のは許されない。
(たぶん、内申点が下げられる。)
また、「5回では覚えられない子が回数を増やす」という試みもたぶん行われない。
(それは評価されないし、宿題の内容を勝手に変えるのは恐ろしいから。)
「一度も書かずに覚える」にチャレンジした子は大変ひどい目にあうだろう。
(「やる気がない」か「指示を無視する」という評価を受けることになるので。)
しかし、そういう工夫をなぜしてはいけないのだろう。
(「書かずに覚えよ」というのは、実は、多くの「学習研究者」が主張していて、
 実は、私も推奨している。)
 
「覚えろ」「練習しろ(できるようになれ)」という教育で出される指示は、
要するに、「覚えるまで(できるようになるまで)繰り返せ」であって、
「何回書け」「何回計算しろ」ではない。
 
生徒には工夫の余地が大いにあり、まさに個性を発揮するところだと思うのだ。