じゃあ、どうすればよいと思うか 4

発見学習とか、どうしてもウソくさいと思う。
普通の子供に発見や研究ができるのだろうか。
逆に、子供が何かを発見したとして、教員はそれを評価できるのだろうか。
 
私は「お店を研究したら、お花を研究したら、○○を研究したら、こういう発見があるべき。
それはこんな風にまとめられるべき」というアンチョコが先生側にあると思う。
(だってなければ自信を持って指導なんかできないだろう。)
それが悪いと言っているのではない。
そういう授業はあるべきだし、状況に応じて多くやってもよいと思う。
しかし、これらは
 
・ニセモノである。(よく言えば、研究のシミュレーション。)
・発見の仕方、考え方まで指定している。(レールがある。)
 
このような側面は、当然、良い点でもあるが悪い点でもあるのだ。
悪い点でもあるのにこれに固執すれば、結局、悪い作用がどんどん大きくなると思う。
なんだかみんなとワイワイやって、何か発言して、
(バランスを見ながらほめている)先生にほめられて、何かをした気になる。
それで本当に「生きる力」とやらが身につくのだろうか。
 
しかるに、「これを覚えろ」「これができるようになれ」という指導はどうだろうか。
これにも悪い側面はある。が、言うまでもないからここでは言わない。
いずれにしても、上記の発見学習に比べて
 
・ホンモノである。
・発見や考え方は子供に任せている。
 
であると思う。
何がホンモノかというと、「覚えろ」「できるようになれ」と言われた子は、
まず教材に、それから、自分という人間と向き合わなければならない。
それらはまぎれもない本物である。
「お隣の○○ちゃんはできたのに自分にはできない」というのは、本当の本当にリアルだ。
そういうリアルに向き合わせてあげるべきなのだ。
だって、社会に出れば嫌でも思い知ることになる。
それを社会に出る練習をする学校でまったく知らされないなんて本当にひどいことだと思う。
 
そして、どこにもレールなんかない。(ないのである!)
覚え方も練習の仕方も自分で工夫してよい。
なぜなら、指定することに意味はないから。
 
でも、たぶん、「できない」子は先生に泣きついてくるだろう。
そのときには助言してあげればいい。
(もちろん、最初から、ゆるやかな助言をしてもよいと思う。)
「英単語を何回か、そうだね、たとえば、5回ずつノートに書いてごらん」などと。
本当に困っている子はやってみると思う。
そしてそれがうまくいけば続けるだろうし、うまくいかなければ別の方法を考える
ことになるのである。
(もちろん、「別の方法」には「あきらめる」も含まれるだろう。
 何かをあきらめても、別の何かをあきらめなければ良いと思う。)
 
補足:
「本当に困っている子はやってみると思う。」と書いた。
ゆとり教育やらアクティブラーニングは「困っている子」を作らせない方針のように思う。
できないならできないなりにやる事がある、と。
それは事実だが、最初から逃げ道を用意し、あまつさえ、自分が困った状況にいることを
意識すらさせないのが「能動的学修」の正体である気がしてならない。