じゃあ、どうすればよいと思うか 2

私が話したいのはアクティブラーニングに代表される最近の動きだが、形が見えないから、
たぶん、その基となっているゆとり教育を語る。
 
ゆとり教育は、知識重視型の教育を改め、思考力を鍛える学習であるという。
また、個性的で、能動的で、生きる力を持った子供に育てたい、と。
 
逆に言えば、詰め込み式画一教育を受けた我々は、思考力に劣り、個性がなく、消極的で
生きる力が足りない大人に育ってしまったということなのだろうが、そういう大人たちが
ゆとり教育」を考え出したというのは、どうにも論理が破たんしているように思うのだけど、
それはおいておこう。
 
で、ティーティーチング、グループ学習、実験、観察、調査、研究、発表、討論を
大変重視致しました、と。(個別学習の導入ともある。これには反対しない。)
  
教育のはじまりはインプットだと思う。
インプットがほとんどない子供たちに、実験させたり、調査させたり、発表させるというのは
その子供たちが天才だと思っているか、「どうせたいしたことはやらない」と思っているかだろうが、
まあ、後者だろう。
 
元気な子供たちに目を細めて「よしよし、いい子たちだ」と言っている自分に酔っている老人が
目に浮かんでしまう、、、と言ったら、言い過ぎだろうか。
 
私は子供たちにインプットさせるべきだと思う。
具体的には、漢字を教え、文章の書き方を教え、それから文章を書かせ、直し、
計算方法を教え、計算させ、正しく瞬時に答えが出せるまで習熟させるべきだと思う。
それが終わったら、少しずつ、「高度な課題に挑ませ、採点し、良い結果なら賞賛し、良い結果と
言えないなら、直させる」を繰り返していくべきだと思う。
実験だの討論だのを混ぜてもいいが、はじめに一番重要なのは、インプットだと思うのだ。
 
ときにインプットはつらい。
私は、「なんで漢字のある国に生まれてしまったのだろう」とか「計算大嫌い」と思った記憶がある。
しかし、漢字の勉強も計算練習も重要なのだ。
子供が嫌がる、、、と言うか、自分が嫌だったからと言って、子供たちにやらせないのは非道だと思う。
 
ところでスポーツはどうだろう。
野蛮な昭和時代に推奨されていたうさぎ跳びはどうやら有害無益だったらしい。
同様にヘンに根性を重視した指導は誤りだったのだろう。
しかし、だからと言って、個性的で、能動的で、生きる力を持ったスポーツ選手に育てたいと、
ティーティーチング、グループ学習、実験、観察、調査、研究、発表、討論を
大変重視した練習方法にしたのだろうか。
レクリエーション的な「体育」ならそれでもよいかもしれない。
しかし、それで「選手」が育つのだろうか。
たぶん、違うだろう。
 
脳味噌も体の一部であり、そういう意味では勉強もスポーツの一種だろうに、どうして勉強だけ
違うのだろう。と思う。