アクティブラーニングに反対す

なんだかあちこちでアクティブラーニングという言葉を聞く。
その確たる全体像はいまだわからないけれど、大失敗に終わるような気がしてならない。
「失敗」とは「掲げた目標を達成できない」ということである。
(「何もしないよりやった方がよかった」というのは勘違いである。)
ゆとり教育」と同じにおいがする。
実際、推進しているのは同じメンバーではないだろうか。(未確認)
 
ゆとり教育」では、いろいろな新メソッドが発表された。
私はそのどれも否定しない。
と言うか、用法と用量を間違えなければすばらしいメソッド群だと思う。
ただ、用法と用量を間違えた、、、と言うより、根本的に最初から適用法を間違っていたのだと思う。
それは、「教育の根幹は教えること」ということから目を背け、
しかし、その一方で「予定調和的な教え」を実行しようとしたことだと思う。
 
ゆとり教育はの理想は、次のようなものだったと思う。
 
・「教え込み」をやめる。
・指導者は生徒の興味を開くことに徹し、あとは生徒の自主性に任せる。
・生徒は自らの力で伸びていく。
 
なかなか美しい世界観だと思う。
しかし、生徒が自主的に「俺、勉強したくないよ」と言った時の対策がない。
「生徒は自らの力で伸びていく」というのは指導者側の期待であって、そうなるとは限らない。
そもそもそういう期待を持つこと自体が、「生徒の自主性に任す」と矛盾していて、
有害な偽善だと思う。
 
生徒が「俺、数学に興味涌かないな。やりたくないよ」と自主性を発揮してしまった場合、
おそらく、(論理の帰結として)指導者の資質が問われることになると思う。
だって、ゆとり教育論者によれば、生徒は興味を持てば自分で伸びていくものであり、
その興味を持たせることが先生の仕事なんだから。 
(「帝国は必ず勝つ。負けるとしたらおまえたちの努力が足りないだけだ」的な。)
 
そこで、生徒が思ったように伸びていかない場合、決して美しくない「微調整」が図られる。のだろう。
いや、「微調整」というのは、たぶん、ゆとり教育推進派の人たちの自己評価であって、
実際には「根本的な公約違反」だろうと思う。
 
具体的には、「授業中での発言や宿題を強要する」などである。
こう言うと、「授業中の発言は良いことだし、宿題はやるべきものなんだから、それの何が悪いの?」と
思う人も多いと思う。
しかし、それは少しも自主性を重んじていないのである。
 
たとえば、次のような状況はどうだろう。()内は心の声である。
 
先生「A君、授業中寝てるね。宿題もやってないようだ」
A君「数学わからないから嫌いなんです。宿題もできない」
先生「そうか。先生も子供の頃数学ができなくて苦労したからわかるよ。
   じゃ、もう一度教えてあげよう。よく聞きなさい」
B君(わかってきたところなんだから、はやく授業進めてくれないかな)
C君(この授業やさしすぎるよ。退屈でたまらない)
先生「というわけだ。A君、わかったな?」
A君「・・・」(わかりません。全然、わかりません)
先生「・・・」(さすがに授業を進めないとな)
先生「じゃ、A君、とにかく、宿題だけはやりなさいよ」
  (宿題はA君にもできるよう、もっと単純なものにしないとな)
A君「はい」(宿題だけやるか。頭を使わずにできそうだから)
 
このような状況はゆとり教育であるなしにかかわらず発生する。
しかし、「生徒の興味と自主性」という美しい世界観にとらわれていれば、先生の手段は限られ、
よりダメージが大きくなると思う。
誰へのダメージかと言うと、A君、B君、C君全部へである。
宿題は「誰にでもできるもの」でなければならないから、必然的に、単純作業的なものになり、
また、それなりに負荷をかけるべきだろうから、単純作業の量が多くなりがちである。
(たとえば、「英単語を5個ずつ書いてくる」という宿題なら、英単語を覚えることは
 まったくどうでもよくて、5個ずつ書いてくることが重要になる。)
 
そして、結局宿題をやらなかったA君と先生には、さらなる悲劇が訪れる。
その結果、B君、C君も悲劇に見舞われる。
 
と、ゆとり教育の話だが、最初に言ったようにアクティブラーニングにも同じにおいを感じるのだ。
まさかの、続く。
 
注:
宿題をやらなかったA君に訪れる悲劇は「これじゃあ良い内申点はあげられないよ」とおどされるか、
それを実行されることである。
先生に訪れる悲劇は、そんなことをしなければならないということである。
B君の悲劇は、せっかく芽生えた数学への興味が「A君でもできる宿題」を大量に出されることで
ついえてしまうかもしれないことである。
C君の悲劇は、毎日何時間も「数学の授業と宿題」に拘束されながら、実際の数学は少しもやらせて
もらえないことである。