アクティブラーニング反対す 2

一応、調べてみたら、文○省のHPに定義があった。
 
教員による一方向的な講義形式の教育とは異なり、学修者の能動的な学修への参加を
取り入れた教授・学習法の総称。学修者が能動的に学修することによって、
認知的、倫理的、社会的能力、教養、知識、経験を含めた汎用的能力の育成を図る。
発見学習、問題解決学習、体験学習、調査学習等が含まれるが、教室内でのグループ・
ディスカッション、ディベート、グループ・ワーク等も有効なアクティブ・ラーニング
の方法である。
 
これだけ聞けば、わざわざ反対することもないように思うかもしれない。
ゆとり教育のメソッド群と同じである。
 
しかし、最近の流れは、このアクティブラーニングを主に置こうということだと思う。
私はそれに反対しているのである。
 
ちなみに、「ゆとり教育」の理念は、新学力観というやつだと思うのだが、以下のよう。
 
これからの学校教育においては、子ども一人一人がこれからの社会の中で、生涯にわたって、
心豊かに主体的、創造的に生きていくことができる資質や能力を育成することが求められる。
 
似てますよね?
「学修者の能動的な学修への参加」と「心豊かに主体的、創造的に生きていくこと」。
 
もちろん、能動的な参加や主体的・創造的に生きていくことに反対しているのではない。
また、生徒・学生がそうなるように、指導者が支援することもすばらしいことだと思う。
しかし、こんな(たぶん実行不能な)夢物語を主に据えるのは危険すぎると思うのだ。
夢物語というのは、「生徒が能動的・主体的になる」(できるはず)ということではなく、
「発見学習やグループワークでそのように指導できる」と思うことである。
 
能動性も主体性も本人たちの問題であり、指導者がそれをコントロールすることはできない。
生徒が能動的に学修に参加しなかった時、どうするのだろうか。
その場合、見せかけだけ「能動的」にするのだと思う。
「能力の低い現場の先生が粉飾決算をする」と言っているのではない。
アクティブラーニングの推進者が組織的に粉飾決算をせざるを得ない状況を作り出すのではないか、
そして、粉飾を容認と言うか、積極的に指示するようになるのではないか、と危惧するのである。
その場合、多くの子供たちの「いろいろ」が失われることになるだろう。
 
失敗を予想する理由は、前回(今回も)書いた通り。
だが、念のためまとめると次のよう。
 
指導者は生徒の能動性・主体性をコントロールできない。
 (できてしまうものは能動性でも主体性でもない。)
コントロールできないものが好ましくない方向に動いた場合の対策がない。
 (正確には「現場に任す」という対策しかない。)
 
である。
後半部分は「原発事故は絶対に起こらない。起こらないんだから対策はない」と同じである。
 
能動的に学修しない生徒に向かって、先生が「能動的に学修しろ」と叱る。
滑稽だろうか?
私は笑えない。