成長について

まあ、議論はしないのだけど。
 
我々の世代は、自分の成長と国の経済発展がバッチリ一致した、幸運な世代だった。
我々より上の世代(現政治家の大部分の世代)も、肉体的成長はともかく、
気持ち的な成長(会社内での出世など)と一致していたはずだ。
 
かつて、教えられたのは、「成長こそが重要であり、結果自体は重要ではない」だった。
そういう我々にとって「成長」は、はっきり言えば強迫観念にすら近いものがある。
だから、学校の優等生は偏差値を伸ばすという「成長」を、暴走族のヤンキーは
運転テクや度胸での「成長」を語った。
こんな風に皮肉に語っている私自身、「成長フォビア」から抜けられないし、
実のところ、抜ける気もないのである。
(それが、「幸せについて」で書き始めたことだったのだ。)
 
しかし、「何がなんでも成長」にはやっぱり無理がある。と思うのだ。
「経済成長がゆっくりになった国(あるいは、極端に言えば、止まった国)」においても、
「成長」(国の発展、人の成長)はあるはずだ。
それが何か、よく考えるべきではないだろうか。