幸せについて2

「買い物」による幸せがなぜあまり幸せでないかというと、
 
・「買い物」自体が目的化されると幸福感は少ない。
 (中毒化した場合、そこに幸福感はないと思う。)
・お金には限界があるから持続が不可能。
 
などであって、「他人の役に立たないから」とかそういうことではない。
あくまでも「自分の幸せ」の話を考えているのである。
 
そもそも「幸せ」というのは個人が感じるものだから、自己満足的要素は強い。
(犯罪や迷惑ではないとした上で)完璧な自己満足で本当に幸せを感じられ、かつ、
それが長期に渡って持続可能なら私は止めない。
ボランティアを「自己満足だからやめろ」という人がいるが、あれで自己満足が得られるなら、
人助けになる自己満足なんてすばらしいから続けて欲しいと思うのみである。
 
こほん。
それで、人の行動には、生産と消費があると思う。
ただし、これらの厳密な定義は難しい。
たとえば、「農民は米を作る」というが、実際米を構成してい分子を作っているのではない。
「植物による太陽エネルギーの炭水化物への変換」を助け、その成果を奪っているとも言える。
また、画家が絵を描いているのは、「絵の生産」だと思うが、「紙と絵の具の消費」でもある。
 
で、そういうことの定義の話をしたいのではなく、ざっくり人間の行動を考える切り口として
消費と生産を考えたいのだ。
ただ、生産というより創造と言った方がカッコイイのでそう言いたい。
 
と言っても、「消費は悪いこと」などと思っているのではない。
一番最初に書いたように、消費で幸せになれればそれでいいと思うのだが、たぶん、普通の人には
なれそうもないことが問題なのだ。
 
しかし、消費が一定の幸せをもたらしてくれることも事実だと思う。
そもそも消費をしなければ生きていけないのだから、それを否定するつもりもない。
長期に渡って持続可能なら(もちろん、犯罪等でないことは当然として)、止めないのである。
 
で、消費にはどういうものが考えられるだろうか。
すぐに思いつくのが、何度も言った「無目的的な買い物」である。
無目的的に「的」が2個あるのはタイプミスではない。
「目的はそれなりにあるんだけど、まあ、実際のところそれほど重要でもない買い物」である。
たとえば、「いつか着るかもしれない(今必要ではない)洋服を買う」などということだ。
度を越さなければやってよいと思うし、状況次第では、推奨もされると思う。
 
恥ずかしながら、私は、文房具が好きで、あまり必要のないノートなどを買ってしまう。
これなども「無目的的な買い物」だが、そこそこの幸福感があり、持続も可能であり、
「まあ、いいだろう」と思っている。
 
しかし、その幸福感はささやかだ。
文房具の大量買いをすれば幸福感が増大するような気はしない。
 
続けたいけど、のんびり。