私の最近の勉強理論 3

つまり、えーと、「勉強に関する期待をコントロールする」ということである。
以上。終わり。
 
なんだけど、もう少し。
勉強の成果と言えば、たとえば、テストの点数なんかがそうだと思うが、勉強した直後に
得られるものは、満足感ではないだろうか。
「ああ、俺、勉強した。おかげでこの分野わかるようになったぞ。次のテストはいけるかも」
みたいな満足感である。
これが日常的に得られるなら勉強も進むと思う。
一方、せっかく勉強したのに、「なんだか全然わかんないぞ。どうしよう」なんて感想に
なるときもある、こんなことが続くと、普通の人なら勉強をやめたくなるだろう。
 
一応言っておくと、勉強はし続ければ「全然わかんない」ということにはならないと思う。
教科書はちゃんと段階をおって説明してくれているのだから。
それなのにわからなくなるのは、中断が長すぎていろいろ忘れてしまうからだと思う。
そう。「勉強の極意はやめないこと」なのである。
 
しかし、まあ、こほん。どうしても中断してしまうのだ。あ、私の場合は。
学校行事とか、不意の出来事とか・・・、というのは、言い訳である。
それが言い訳だということは、誰もがうすうす感じているのではないだろうか。
本当の理由は、最初は「面倒くさい」だろうと思う。
それが、せっぱつまってきて、「面倒くさい」なんて甘っちょろいことを言っていられなく
なっても、それでもなお勉強する気が起きないことがあるとすれば、それは、
本能が「全然わかんない」という事態に直面することを感じていて、その直面を避けたい
からではないかと思うのだ。
 
実際、その頃勉強しても、「全然わかんない」となる可能性は高い。
だから、まあ、中断なく日々努力を続けてだな・・・というのは、私には理想論に過ぎない。
よく考えてみると、ただ「面倒くさい」なら、がまんしてやるべきだと思うが、
実は、すでにうっすら「ちょっとわからない」があって、その事実との対決を回避するため、
「(わからないんじゃない)面倒くさい(だけだ)」と見せ掛けの理由を作っている
のかもしれない。
ちょっとでも中断すれば、ちょっとわからなくなることもあるだろうから。
 
で、このちょっとの中断を乗り切る方法があればよいと思うのだ。
それが、勉強に関する期待のコントロールなのだ。
 
そもそも「勉強してわからないことに出会うのが嫌だ。自分がわかっていないことを
直視させられるのが嫌だ」というのは、期待過剰からくるのではないかと思う。
たとえば、先週10時間勉強したとしよう。
結構な時間だ。それなのに、今週勉強しなおして全然わからなかったら?
それはすごく嫌だと思う。
単純に「テストが不安だ」というようなことではなく、もっと根源的な、自分自身の能力に
対する重大な不安がよぎる。
だからこそ、そういう事態が起こっても、いや起こりつつあればこそ、それを直視したくないのだ。
そうして事態をより悪化させてしまう。
 
ところで、先週全然勉強していなかったとしよう。
そして、「そういう事情だから、全然わかないのは当然だ」と心の底から納得していて、
「よし、今週から心を入れ替えて、うんと基礎的なところから勉強をやり直すぞ」と
思える人は、勉強をはじめることができるだろう。
 
しかし、まあ、それを毎週繰り返すのもナンだな(実際、本当に繰り返すと、一歩も
先に進めないことになる)と思う人は、別の心の持ち方が必要になるだろう。
たとえば、「人は忘れる動物だ。先週できたからと言って今週もできるとは限らない。
むしろ、できなくなっている可能性の方が高い。だから、もう一度やり直すくらいの
気持ちで勉強すればいいんだ。そうすれば必ず進歩する」とおっしゃる人がいる。
 
ダイの大賛成である。
結局、そういう心の持ち方こそ大事だと思う。
そして、それは「勉強(の成果)への過剰な期待を持たない」ということのひとつの
かなり有用な実現方法だと思うのだ。
(それに「わからなくなったらやり直す」もかなり実践的な忠告だ。)
 
が、もう少し、別の「方法」も考えてみたい。