存在の環 2

石と岩の話はずいぶん哲学的だ。
が、私の話はそこまで哲学的論理的でない話を含んでいる。
というか、その方が主題だ。
ただ、構造は石と岩に似ている、と。
 
もう1つの例。
私が、大昔、アメリカに行ったときのこと。
どこに行っても銀行口座を聞かれた。
そして、「アメリカの銀行口座などない」と言うと、そこで門前払いとなった。
たとえ、現金を持っていても。
たとえば、アパートを借りることができなかったので住所不定となった。
 
そこで銀行に行くと、住所を聞かれた。
「銀行口座がないのでアパートを借りられずしたがって住所はない。
 とにかく口座を開きたい」と言うと、「住所がない人は口座を開けない」と言う。
えーと、じゃ、どうすればよいんでしょうね?
 
答は簡単で、「信用あるアメリカ人(組織)に保証してもらう」だった。
が、まあ、それはそれ。
その仕組みに気がつかなければ私はどうどうめぐりの中をずっとさまよっていたかもしれない。
 
何が言いたいかというと、つまり、世の中にはこんな仕組みが結構ある。
結構あるにもかかわらず、多くの人は、あまり意識しないということだ。
 
勉強の話に戻ると、Aを理解するためにはBを理解している必要がある。Bを理解するためには
Cを理解している必要がある。そして、Cを理解しているためにはAを理解している必要がある。
というようなことが、結構あると思うのだ。
私はこれを「理解の環」とよぼう。
 
実を言うと、上記ほど明確ではないかもしれない。
たとえば、その環がものすごく大きくて、いずれもとに戻るとは気がつかないとか、
途中でいくつにも分岐していてだんだん全体像がわからなくなるとか。
あるいは、本当は上記のように「保証してもらう」のような入り口があって、入り口から
入れば(あまり)苦労はないとか。
しかし、見えなくても環は環であろう。
また、入り口があっても、環は環だと思う。
 
もちろん、こういう状況は困る(アメリカの私は困った。笑いもしたけれど)ので、
先生はそうならないような順番で教えることになる。
たとえば、まず、数の数え方を教え、足し算を教え、次に引き算を、そして掛け算を教えて、
最後に割り算に到る。
 
この順番にナンの疑問もない。
これなら人は順番に算数を理解していける。だろうか?
じゃあ、なぜ、算数や数学で落ちこぼれる人がこんなにたくさんいるのだろうか。