読書法再考

昔々、高校の漢文の先生が次のような話をされた(と思う)。
 
 あまりに無能な人は生きていけないかもしれない。
 しかし、あまりに有能だと為政者に恐れられ処刑されてしまうかもしれない。
 だから、極端に無能なのも有能なのも良くなく「ほどほどが良い」という考えが生まれる。
 それを中庸の徳という人がいるが、それは誤りである。
 中庸の徳とは、「有能な人が必要とされるときは有能な人になり、無能な人でいるべき
 ときには無能な人でいられるということ。つまり、いつでも中間に立っていて、
 そのときに必要な方向に動けるということ」である。
 
大昔のことなので、記憶違いや記憶の改変の可能性もあるし、そもそも先生の話を
理解していなかった可能性もある。
が、正しく記憶していたとして、私には、大変印象深い話だった。
(この先生のお話は、たぶん、だいたいにおいて、100%は賛成できないのだが、
 しかし、とても考えさせられるものだった。)
 
さて、それはそれとして、私は、「読書は真剣に行うように」と教えられ育ってきた
ような気がする。
誰にそう教わったかと言うと、よくわからないが、たぶん、両親や小学校の先生だろうと思う。
「読書」というのは、一種の「神聖な行為」であったようにも思う。
本をまたぐと母親にものすごく叱られたものである。
 
子供ができて、教育の助けになるかと、勉強法の本をよく読むようになった。
それらの中に、「本を軽く読め」というものが結構あったと思う。
だいたいの要旨は、「本を最初から真剣にすべて理解しようとして読めば挫折してしまったり、
そうでなくとも、読むのに時間がかかりすぎる。それより、さっさと軽く読み流し、
それを繰り返した方が良い」というようなものだ。
 
私は激怒した。
ということはなく、そういうところは読み飛ばしていた(笑)。
 
結論は見えたけど、続く。