心の技術 2

前にも書いたと思うが、たとえば、「砂に埋まったゴルフボールをうまく叩き出すには、
ボールに根がはえていると思い、その根を切るようにクラブを振るとよい」なんて言う人がいた。
そう言われてできる人はできるんだと思う。また、できない人はできない。
ただ、できる人には確かに意味のある方法のはずで、それは「心の技術」の一種だと思う。
 
たとえば、「朝少し早く起きて、まっさきに30分本を読むと良い」という人がいる。
それもやはり、できる人とできない人がいるだろう。
そして、ちゃんとできて効果が上がっている人もいるはずだ。
これは、「(良い)習慣」ともよばれるだろうが、私の定義の「心の技術」の一種だと思う。
 
このような心の技術が身に付く人と身に付かない人がいるのはなぜだろうか。
もちろん、「役に立たないから」というケースもあると思う。
たとえば、それが「勉強法を書いた人のウソ・妄想」ということも十分あると思う。
(たとえば、「その通りに実行したら、1日24時間じゃ足りませんよね?」という勉強法もある。
 それは、ウソか妄想なんだと思う。)
また、方向違いということもある。
野球がうまくなりたい子供に、バタフライの技術を教えてもたぶん無意味だから。
 
そういうケースは別にすると、次のようなことではないかと思う。
 
・「練習しなければならない」ということを知らない。
 
まず、心の技術も体の技術と同様に練習しなければできるようにならないと思う。
たとえば、「バットでボールを打つ」ということなら、気合だけでできると思う人は少ないと思う。
根本に気合が必要だとしても、まず、練習が必要なはずだ。
ところが、「朝起きて30分読書」ができるかどうかになると、「それは気合の問題。できないのは
気合が足りないから」と思う人が多い。そして、うまくいかないと、「自分には気合が足りない」
か「この方法は間違っている」となってしまう。
私は、まず、「練習すべきだ」という事実を知るべきだと思う。
 
さて、「練習すべきだ」に賛成いただけても、問題は山積みである。
 
・何が正しい練習法かわからない。
・したがって、自分が正しく練習しているかわからないし、他人に確認することもできない。
・練習法を自分勝手に創作し、うまくいかないとあきらめる。
 
「朝起きて読書」に意味があるとする。(あくまで例であってコレ自体は論じない。)
それをやろうとしてできなければ、できるように練習すべきなのだ。
しかし、その練習法はあまり語れらていないと思う。
と言うのは、私が思うに、それはやるしかないからだと思う。
 
あれ?
「できなければできるように練習しなければいけない」と言っておいて、「練習法はやること」?
はい。結局、そういうことだと思うのだ。
泳げるようになるためには泳がなくてはならない。
英語が話せるようになるには英語を話さなくてはならない。
朝読書ができるようになるには朝読書をしなければならない。
 
むちゃなようだが、なんでも同じことだと思う。
どんなに理論を聞かされても、普通の人はバットでボールが打てない。
「実際に打席にたってボールに向かってバットを振る」という練習が必要なのだ。
(素振りも重要ではあるけれど。)
ただし、それは、「いきなり試合の打席に立て」ということではなく、練習として打席に立つのだ。
 
「朝読書」にしても「7回読み」にしても、最初からできないのなら、
まず「心の技術の習得のための練習」としてやるべきだと思うのだ。
 
続けたい。けど、わからない。
・・・と思ったのだけど、やっぱり一旦終了とします。