考えるということについて 最終回

私は何かを思いついたか思いつきそうなときにブログに書くのだった。
今回のテーマは「子供に思考させる教育とはどういうものか」だった。
実際、何かを思いついたような気がしたのだが、それは主に数学についてで、
8月に書いた「数学の7つ道具」とほぼ同内容なことだった。
衝撃である。
このブログはいつも堂々巡りをしているが、今年の8月って、サイクルが短すぎる。
自分の知性に恐怖すら覚えるのである。(もちろん、いい方にではなく。)
 
と言うことで、新たに書くことがほとんどない。
ただ、やはり、「思いついた」と思うことを書きたい。
それがこのエントリーをはじめた動機だった。
それは、箇条書きにすると次のようになる。
 
・数学はある種の思考パターンを適用する科目だと思う。
・その思考パターンは「三平方の定理」のような立派なものは別にして、
 「こういう問題はこう解くとよい」というような、一見すると経験知のような
 ものであると思う。
・経験知のようなものであるが故に教えづらいものである。
 「数学ができる人」は自然にできてしまうため意識していないことも多く、
 逆に、意識していても「秘伝」として話したがらないとか、 話しても
 「わかってる人」以外には伝わりにくいとかする。
 また、「数学が苦手な人」は、そういうものの存在を感じていてもわかってない。
 (それ故、数学が苦手なのである。)
・ちなみに、予備校の人気講師は、自分の経験知を伝えようとし、ある程度
 成功している人たちだと思う。
 しかし、それをマス教育で伝えるのは難しく、伝わるかどうかは、教わる側の
 ラッキー度に強く依存すると思う。
 (伝わった子は、「才能のある子」「もともとできる子」とされる。)
・経験知的な思考パターンそのものだけでなく、そのパターンをどう教えるかが難しい。
・そこに魔法はなく、私の結論は「数学の7つ道具」で書いたことになる。
 (こうして元に戻ったのだ。)
 
しかし、あとひとつ思ったことがある。
それは、「思考パターン」の数はそれほど多くはないのではないかということだ。
「思考パターン」を覚えて使う前の準備はいる。
それは、以前に「数学ができるようになるためのたった1つのこと」に書いたような
内容である。(自分のブログの宣伝のようになっている。)
特に、「ためらいなく比が使えること」「ためらいなく連立方程式を使えること」の
重要さは、いくら繰り返しても足りた気がしない。
(しかも、これらを身につけさせるのは、ものすごく難しい。)
しかし、そのような準備があれば、あとはそれ程の数ではないように思ったのだ。
そして、指導者としてやるべきことは、
 
 多くはない思考パターンを整理し、身に付けさせる
 
ということではないかと思うのだ。
 
「具体的にはいくつか」?と言うと、ちゃんと数えていない(数える気力が出ない)が、
勘で言うと、数I・A・II・B・III、それぞれに3つもないんじゃないかと思えるのだ。
具体論は、また別途考えたい。
 
終了。