考えるということについて4

柔道の技は、相手がしっかり構えているときにはかかりにくいのだそうだ。
だから、相手の体勢を崩して技をかけられるようにもっていくのだと。
数学では、いわゆる「難しい問題」は、定理や公式一発では解けない。
それらをどう適用してよいか、一見するとわからないからこそ、「難しい問題」なのだ。
そこで、問題の内容をよく考え、整理すると、定理や公式を適用できるようになる。
つまり、柔道での崩しが、数学では整理になっているのである。
 
それで、数学ができるようになりたいなら、
 
 難しい問題 → 整理 → 定理・公式の適用
 
ができるようにならなければいけないのだ。
(より難しい問題は、この作業を複合的に行わなければならなくなる。
 しかし、それは、単に「複合するだけ」だと思う。)
 
「→ 定理・公式の適用」の部分ができなければお話にならないが、「 → 整理 → 」の
部分をやりぬく訓練が必要なのである。
 
このような訓練を与えることは、易しいことではないと思う。
まず、確立された方法はないと思う。
いろいろな参考書を見ると、確かに、この部分を考えたものがあると思う。
しかし、その方法が、万人に適用できるのか、あるいは、自分の生徒や子供に適用できるのか、
それを判断するのは難しいと思うのだ。
(「→ 定理・公式の適用」の部分は簡単だ。基本問題を解かせればよいのだから。)
 
また、ちょっと皮肉な難しさもある。
生徒に「 → 整理 → 」の訓練をさせると言っても、ノーヒントで「やれ」と言うのが
よいかどうかわからない。生徒がそれでうまい具合にわかってくれればよいが、そうでない場合は、
プールの前に立って「自由に泳げ」と言っているのと同じことになるからだ。
だからと言ってその部分を説明しすぎると、生徒は自分で考えるチャンスを失う。
これは、いつまでも過剰な補助を付けて水泳を教える先生のようなものだろう。
体育の先生にそういう人はあまりいないと思うが、数学の先生にはけっこういると思う。
もちろん、それは善意の行動なのだが。
 
続く。