考えるということについて3

私は高校生までろくに泳げなかったので、泳げない人の「水が怖い」はよくわかっている。
たとえば、ちゃんと泳げれば水の深さなど問題にならないのに、泳げないと背の立たない
ところでは泳ぎたくないのである。
 
数学についても同じことが起こっているような気がする。
「解けるとわかっている問題しか解きたがらない」とか。
ある分野(どの分野であれ)を、本当にはじめて学ぶときは、「解けるとわかってる問題」
(先生が出してくれた例題やその類題)をゆっくり解くことに、大きな意義がある。
しかし、いつまでもそういう問題を解いていてはいけないと思う。
その場合、「解けるとわかってる問題を解くこと」は、「考えること」の訓練にはほとんど
なっていないからだ。
 
たとえば、プールに浮き輪というものがある。
「泳げない人が水泳を学ぶために浮き輪を使う」というのは、多くの場合、間違いだと思う。
本当の初心者が、水に慣れるために使うのはいいだろう。
しかし、ずっと使い続ければ、どんどん泳げない方向に進んで行くと思う。
浮き輪は「泳がなくてよくする道具」なのだから。
数学で「解ける問題ばかり解く」という行動は、それに似ている。
 
(高校までの)数学で大事なことは、(一見)はじめて見る問題にアタックし、それを解く
ことである。
そういう練習をしなければ、普通の人は、数学ができるようにはならないだろう。
いつまでも「解けるとわかっている問題を解くこと」は、「考えることをしない」ということ
であり、むしろ数学ができなくなる方向に進んでいると思うのだ。
本人たちは、解ける問題を解いて勉強したつもりになっているのが、さらに恐ろしい。
 
って、話は何度もしてきた。
 
ここで逆に聞きたい。
それでは、「考える」ということはそんなに難しいことなのだろうか?
そんなに恐ろしいことなのだろうか?
 
こういう質問はあまり聞いたことがなく、その答はもっと聞いたことがないのだが、
たとえば、「確かに考えることは難しい。しかし、だからこそ、問題が解けたときに
喜びがあるのだ。がんばりなさい」などというのが、標準的な答ではないだろうか。
 
私もそんな風に考えてきた。
しかし、この年になって、また数学を勉強しなおして、別の感想を持った。それは、
 
・(高校までの)「数学で考えること」など難しくもなんともない。
・世間の人は「考えること」を必要以上に恐れすぎである。
・(高校までの)「数学で考えること」は、限りなく、パターンの適用に近い。
 
である。
(また数学の話になっているが、私は理科や社会にも適用したい。それはあとで。)
 
詳しくはないのだが、柔道の試合を見ていると、「背負い投げで一本」とか「大外狩りで一本」
などという決まり方をしている。
すると、柔道家は、いろいろな投げ方を練習し、より投げ方のうまい方が勝つのだろうか?
それは、「ナントカ投げ(狩り)」の定義によるらしい。
「基本動作としてのナントカ投げだけうまくてもだめで、そのナントカ投げにうまくもって行ける
人が強いのだ」と聞いたことがある。(そういうのは「崩し」「作り」などというらしい。)
「あの人は背負い投げが得意」というのは、「基本動作としての背負い投げ」が上手なだけではなく、
「背負い投げにもっていくのがうまい」ということだ、と。
それが正しいとすると、柔道家は、「より強い投げ技を身に付けた方が強い」というより、
「よりうまく自分の決め技にもって行ける人が強い」のではないだろうか。
 
すいません。知りもしない柔道の話をしました。
しかし、このイメージは、数学に似ている。
数学の問題は、「○○定理を使って解いた」とか「○○公式で解いた」となるのだが、
○○定理も○○公式も知らない人はいないのであって、重要なことは、それらの定理や公式が
使えるところまで問題を持っていくということなのだ。
 
一切試合の練習をしないで投げ技の練習をしている柔道家は(天才でなければ)あまり強くないと思う。
それは、「基本問題ばかり解いている高校生」と同じだ。
一方、「自由に考えて動きなさい。それが君の個性なのだから」と本気で言う監督に指導された
道家も(天才でなければ)あまり強くないと思う。
それは、「自由な発想で考えなさい」としか言わない先生に教わった高校生と同じだろう。
 
続く。