考えるということについて2
我々は、「考える」ということを、とても「神聖な行為」と思っているように思う。
それはよいと思う。
しかし、ときにその行き過ぎがあるのではないだろうか。
先生が、「自由に考えてみなさい」というとき、多くの場合、どこか「理想の学習」を想像して
いるような気がする。
それで実際子供が自由に思考し伸びていくなら、理想である。
しかし、そうならないなら、別の方法を考えるべきだと思う。
別の方法とは、言ってしまえば、「自由に考えさせない」ことである。
これは、某センセー達は大好きなようだが、私のようなリベラル派にはなかなか難しいことである。
しかし、今は、これが子供のためだと、確信している。
最初から最後まで「自由に考えなさい」などと言っていれば、むしろ、そのセンセー達が喜ぶような
成人に育ってしまうと思う。
(もちろん、最後は、自由に考えるべきであり、それを妨げる権利は誰にもないと、私は思う。)
「考える」ということを「プールで泳ぐ」に例えてみたい。
「自由に考えなさい」というのは、「自由にプールで泳ぎなさい」ということである。
すでに泳ぎ方を知っている子なら大喜びだろう。
しかし、そうでない場合、
・怖気づいてプールに入れない。
・プールに入ってぼんやりする。
・プールの中で大いにはしゃぎまわりそれを水泳と思ってしまう。
(しかし、実際には、まったく泳げない。)
などとなってしまい勝ちだと思う。
そして、これは、「自由に考えなさい」で起こるできごとと同じだと思うのだ。
しかし、普通は、いきなり「自由に泳ぎなさい」とは言わない。
たぶん、体育の先生は、次のような手順を踏むのではないだろうか。
1 陸上で泳ぎ方を教え、プールサイドでやらせる。
2 プールにいれて水に慣れさせる。
3 レーンにそって泳がせる。足をついてもいい。
4 レーンにそって泳がせる。足はつくなよ。
体育の先生は、普通、自由に泳がせてはくれないのだ。
しかし、考えてみると、これは思考を教える先生たちがしていることととてもよく似ていると思う。
数学でいえば、
1 例題を説明する。
2 例題の類題を解かせる。
3 応用問題を解かせる。できなければ、教科書や解答を見せる。
4 テストをする。何も見ないで解けよ。
数学の「例題」は、水泳の「バタ足のやり方」や「水中での姿勢」だったりする。
水泳の指導も数学の指導もうまくいけば、うまくいくと思う。
うまくいかなかった場合どうなるだろうか。
あるいは、うまくいかなかった場合、なぜうまくいかなかったのだろうか。
それを水泳で考えてみたい。
泳げない子供たちの言い分(大人が解釈して言い直したものを含む)は次のようなものではないだろうか。
「手や足の動かし方がわからない」
「息継ぎができない」
「陸上と水中はぜんぜん違う」
「なんでかわからないけど泳げない」
などなど・・・
本当のところ、何が原因かと言うと、2つの言い方ができると思う。
・水が怖い。
・「泳ぐ」ということが理解できていない。
これらは、まったく同じことを、別の言い方で言っているにすぎないと思う。
実際、泳げる人は、水が怖くない。
水泳とは(選手のことは知らない)、水の上に乗って体を動かすだけなんだから、それを理解していれば、
「怖い」という要素などないはずだ。
(泳ぎの好きな私は、海の上で、浮き輪なしで昼寝ができると思う。)
(水泳の達人が「水は怖い。慢心してはいけない」と言う、というような話は、今はしていない。
妻によく言われるのだが。)
続く。