考えるということについて

人にものを教えるとき、一番思うことは、「考えてほしい」だ。
ところが、結構多くの人が、「考えない」。
それはなぜかと言うと、次の2つの理由が考えられる。
 
1 考えるのが面倒。
 「考えるなんてたりーしぃ」
2 考える方法がわからない。
 「考えろって言われても何をしていいかわからない」
 
さて、「どっちでしょう?」と改めて問われたら、先生も親もちょっと考えると思う。
しかし、改めて問われたのでなければ、ケース1を疑っていることが多いと思う。
実際、「考えない子」は、大抵「宿題などをめんどくさがる子」であるから。
 
しかし、本当のところ、ケース2であることが多いのではないだろうか。
あるいは、長いことケース2の状態が続いたため、ケース1に移行してしまったとか。
それは、大変、気の毒なケースだと思う。
 
世に「詰め込み教育」などという言葉があった(過去形?)が、私自身は、テレビドラマ
以外でそういう先生に会ったことはない。
どの先生も、大抵は熱心に(たまには、おざなりでも)「考え方」を教えようとしていた。
数学の先生曰く「この問題はこうやって解くんです」。
国語の先生曰く「この文章はこのように読むんです」。
英語の先生曰く「単語やイディオムの暗記は重要です。でも、それだけでは英語は身に付きません」。
以下略。
 
そして、その結論は、「考えなさい」ではなかっただろうか。
それで、生徒が「な〜るほど、じゃあ、考えてみよう」となるのが理想であり、実際、そうなる
場合も少なくないと思う。
しかし、そうならない場合も多いように思う。
その場合、はじめの問いに戻る。「ケース1ですか、ケース2ですか?」と。
 
ケース2に陥る子がいるとして、その原因はなんだろうか?
例によって、才能の話はしたくない。無意味だから。
それから、「先生にやる気がない」とか「生徒が授業を聞いてない」というような場合も考えない。
それを論じてもしかたがないから。
そうすると、ケース2の理由は、次のようになると思う。
 
 考える方法が生徒に伝わっていない
 
これは、同義反復である。
しかし、ここから出発しないといけないと思うのだ。
 
続く。