人はどうして勉強ができたりできなかったりするのか?2

前回のたとえ話は、もちろん、
 
町 → 科目・学問
施設(郵便局とか駅とか) → 基本問題・基礎理論
学校からの道順 → 基本問題の解き方・基本的な考え方
問1、問2 → テストの基本問題
問3、問4 → テストの応用問題・複合問題
 
などの「たとえ」である。
 
「50点しか取れない子」とは「習った基本問題しか解けない子」であり、
「A君」は、「塾で幅広い応用問題演習をした子」であり、
「B君」は、「学校で習った基本問題の解き方から応用問題が解ける子」である。
 
で、どうすれば、「50点しか取れない子」を「B君」にできるか、という問題である。
 
まずはじめに言っておくと、私はその方法を知らない。
よって、その方法を知らない教育者を非難するつもりは毛頭ない。
また、その方法を知っていようといまいと、それを学校で実現していない教育者を
非難するつもりもまったくない。
だって、私は知らないし、できないのだから。
 
しかし、である。
 
 「50点しか取れない子」と「B君」の差異に無頓着であること、
 
また、
 
 「50点しか取れない子」を「B君」のようにしようとしないこと、
 
には、問題を感じるのだ。
 
無頓着なのか、意図的な無視なのか、いわゆる「ゆとり教育」は、その差異を
見ない/見せないものであったと思う。
定期試験では基本問題のみを出題し、問3や問4のような応用問題は、
その存在自体を子供たちに見せないようにしたのである。
(ごくわずかに「発展」としては示していたかもしれない。)
塾に行っていない子供は、応用問題の存在自体を知らないので、当然ながら、
「応用問題を解く努力」ということをしたことがないのである。
これは、子供に対するおそるべき罪だと思う。
 
ゆとり教育は終わった。
だから、それを今批判することに意味はないだろう。
しかし、根幹にある、基本問題しか解けない子と応用問題が解ける子の差異の
問題が、解決されたわけではないのである。
 
続く。