人はどうして勉強ができたりできなかったりするのか?

たとえ話から。
 
小学校の先生が、生徒にこんなことを言ったとする。
「学校の正門を出てまっすぐ300メートル進むと郵便局があります。
 実際に行ってみて、この道を覚えなさい」
たぶん、生徒はみんなやってみる。
次の日、先生は、
「学校の正門を出てまっすぐ300メートル進み、そこで左に向かって100メートル
 進みなさい。そこにあるのが駅です。さあ、行ってみなさい」と言う。
(帰りは「ど○でもドア」で一瞬で帰ってこれるとする。)
 
そんなことを毎日続けているうちに、サボる生徒がどんどん出てくる。
彼らにも言い分はあるだろうが、道を覚えられないことは事実だ。
 
そして、テスト(道順のテスト)の日が来た。
問題は、次のようなものだった。
 
問1 学校から郵便局に行け。
問2 学校から駅に行け。
問3 デパートから学校に戻れ。
問4 駅から港へ行け。
(リアリティはないが、各問ごとに、実際にそれぞれの場所に一人ずつ連れて
 行かれての実技テストだとする。
 また、町は子供だけで歩いても絶対安全とする。)
 
サボっていた子供たちが散々な点数になるのは当然のことだろう。
しかし、サボっていなかった子供たちでも、100点を取れる子は少なかった。
先生の説明はすべて「学校の正門を出て」からはじまっていたからだ。
そのため、まじめにがんばった子供は、問1と問2ができて50点はもらえたが、
問3と問4はびっくりするような問題で、「意味がわからない」という子供も
続出したのである。
 
一方、問3、問4をクリアして100点を取る子もいた。
A君は、塾でそういう問題をやっていたので、100点が取れた。
B君は、塾には行かず、100点が取れた。
彼は、「これって、授業の応用でしょ。
 学校からデパートまでは何度も行ったから道の様子は覚えてる。
 問3は、その道を、デパートから学校まで逆にたどるだけだよね。
 授業で港に行ったことはなかったから、問4は難しかった。
 けど、学校からデパートに行く途中で港が見えたことを思い出したんだ。
 その記憶を頼りに、駅からちょっと歩いたら、わかったんだよ」と言う。
 
えーと、まあ、そういうわけです。
 
まず、ひっかかるのは、「まじめに勉強したのに50点だった子供」たちだ。
それと、A君も。
たぶん、多くの人(特に、ある種の教育関係者?)は、B君に拍手をするのだろう。
「生きる力のある子」だとか。
B君への拍手は、A君への「批判」をこめたものであることもある。
 
B君が優秀な子供であることに異論はない。
また、多くの子がB君のようになってほしいとも思う。
しかし、である。
B君に拍手をし、A君を批判する人たちの、いったい何人が「どうすれば、
B君のようになれるか」を教えてくれるのだろう。
(ちなみに、子供であるA君を批判するのは、不当だと思う。)
 
熱意ある指導者の割と多くは、「サボっている子」に向かうような気がする。
勉強(今は、道順)のおもしろさを教えてやって、いかにやる気にさせるか、と。
それは確かにすばらしい仕事ではあるが、そうしている間に、50点の子が放置
されていることはないだろうか?
あるいは、結局、塾方式で、A君型にしてしまおうとか。
 
いずれにしても、「50点の子をB君のようにする手段」を持っていないのなら、
「0点の子を50点にする」ことに、どれほどの意味があるのだろうか?
   
続く。