ある事実に関して2

「正解はあるはずだが(普通は)それを知り得ない」という問題はいくらでもある。
たとえば、「聖徳太子の本当の顔はどうだったか」とか「宇宙人はいるか」などである。
「社長(あるいは、彼女)は自分をどう思っているのか」「明日の株価は上がるのか」など
というものもある。
 
おそらく「正解」がない問もある。
たとえば、「愛とは何か」とか「人はどう生きるべきか」などである。
最初から「正解はなさそうだ」と思えるから、あまり思い悩む人もいないだろうと思う。
(そこを思い悩む人は、哲学者や詩人になるのだろう。)
 
だが、「正解はあるはずだが(普通は)それを知り得ない」というのはやっかいだ。
社長の気持ちや明日の株価などには、「正解」があり、それがわかればいろいろ有用である。
それだけに思い悩むこともあると思う。
「学力は才能か、努力か?」などという問も同様なのだと思う。
「正解」があるのなら、それを知っておけば、かなり人生を有利に展開できるはずだ。
 
しかし、その正解はたぶん知り得ないのだ。宇宙人がいるかいないかと同じくらい。
「明日の株価」に思い悩みすぎる人は、あまり幸せになれないと思う。
(「明日の株価の予想を書いてひと儲けしたいので、それについて思い悩んでいる人」は
 うまくやれば儲けられると思う。が、もちろん、それは別の話である。)
 
さて、もとに戻しましょう。
同じ授業を受けていて学力が伸びる子とそうでない子がいる。
その事実を前に我々はどうすればいいのか、である。
 
もとに戻すと言っておいてなんなのだが、やっぱり、一般論から入りたい。
人は、「正解はあるはずだがそれを知り得ない問題」に対して、どうすればいいか、だ。
この↑問に対する「(万人が認める)正解」はないと思う。
が、「私の答」はある。
「いろいろな可能性を考え、なるべく後悔しないように生きる」である。
 
この原理は、ただちに、子供の教育に適用される。
「子供の教育の正解」というものは、私にはわからない。
だから「なるべく後悔しないように」生きたいのだ。
ただし、ここで「後悔するかしないか」は、子供自身ではなく、親の方である。
子供は自分の人生を精一杯生きればいいのであって、何かに後悔するのもしないのも
その子自身のものだ。
ここで言っているのは、子のサポーターである親が「後悔しないように」ということである。