数学を話す 2

つまり、数学的人格になるための、シンプルで具体的な実践とは何か、である。
それは、
 
 連立方程式をためらいなく使う。(中学生レベル)
 2次関数の最大値、最小値の問題を楽しむ。(高校生レベル)
 
かな、と思う。と書いた。
連立方程式のことは、これまでもさんざん書いているような気がする。
これは、パブロフの犬のごとく、自動方程式処理マシーンになるのが目的ではない。
だから、中学生は、まず、「方程式のすばらしさ」を味わってほしい。
鶴亀算旅人算ニュートン算も、みんな、方程式で解けちゃうのである。
 
しかし、中学生も終わりに近づけば、意識せずに方程式を使えるようになってはほしい。
方程式を使うのと日本語で話をするのに、区別はないと思う。
それは、「すばやく、かつ、間違えない計算力」も意味する。
「さあ、これから日本語を使うぞ」と思って身構えてから話しだし、
しかも、しょっちゅうつまづくなら、日本人としては困るだろうと思う。
「さあ、これから方程式を使うぞ」と思って身構えしてから立式し、
しかも、しょっちゅうつまづくなら、数学を学ぶ人としては困るだろうと思うのだ。
 
ここが、難しいところである。
最後は、パブロフの犬ではないが、「方程式で即解決」的な計算力は必要になるのだ。
正直なところ、中学3年生にもなったら、「3x - 7 = x + 5」くらい暗算でできてほしい。
それがないとその先に進めない。
そして、そういう計算力は、練習によって得られる。
だから、がんがん練習・・・というのは、ひとつの手ではある。
しかし、方程式をがんがん練習というのは、そのこと自体は数学ではない。
やっぱり、パブロフの犬になってはいけないと思う。
 
数学の先生は、「とにかくやれ」と言いたくなる誘惑を感じると思う。
たしかに、まじめに練習すれば計算力が上がり、連動して成績も(少しは)上がるだろう。
なによりも、子供の努力は尊い
しかし、生徒が「数学をするための能力」の獲得をしているのか、条件反射を鍛えている
だけなのか、見極めるべきだろうと思う。ほんとーに難しいと思うのだが。
 
一方、「ゆとり教育」をまじめに実践するなら、方程式の練習などさせず、「方程式の
意味のみを教える」ということも考えられる。
(私が塾講師だった時代にそういう先生はいなかった。これはあくまで想像です。)
それで、計算力がつけばよいが、必ずしもつかないように思う。
よく「私は計算練習なんかしたことはない。応用問題を解けば自然に計算練習になる。
私にはそれだけで十分だった」とおっしゃる方がいる。
それは、自分の過去(過去の自分の能力)を美化しすぎているような気もするが、
実際にそうだったのかもしれない。
また、このくらいの気概を持つこともよいと思う。
しかし、すべての人に適用される方法だとも思えない。
 
つまり、各自の練習方法にバランスが必要ということになるのだろう。
 
もちょと続く。