正義の人4

遠藤周作は、何もわからないうちに洗礼を受けキリスト教徒になってしまった。
大人になってみると、キリスト教と「自分」が必ずしもぴったり一致しない。
かと言ってキリスト教を捨てることもできない。
という話を書いていたような気がする。(間違ってたらごめんなさい。)
 
この「キリスト教」を「正義」に置き換えると、我々「正義の人」の苦悩は
まったく同じように記述されると思う。
我々は、気がついたら「正義の人」だった。
「悪いことをしちゃいけないよ」という声が自分の中から聞こえてくるのである。
 
幼児期はその声に素直に従っていればよいのだと思う。
(娘の場合、それがあまりに激しかったので、いじめられはしないかちょっと
 心配した時期もあった。しかし、まあ、大丈夫だった。)
しかし、大人になるにつれ、「正義って何?」という声も聞こえてくる。
その上、自分は本当に正義の行動をしているのかわからなくなることもある。
 
娘は中3の頃、ときどき「私はみんなが思ってるほど良い子ではない」という
ことを言っていた。
それまで、先生や同級生にも、「良い子」であると言われ続けていたのだが、
「内心、悪いことも考えてしまう」ということを自覚し始め、他者からの評価に
戸惑うようになったのだ。
「私の腹はそんなに白くない。グレーぐらい」などと言っていた。
 
そういうところが、「良い子」なんだけどね。
でも、それは成長の証であろう。
 
これから、学んでいくべきことは、「正義同士の対立」ではないかと思う。
これをくぐり抜ければ、国語の問題も解けるようになるのではないか(笑)。
 
実は、先日、娘は手痛い洗礼を受けた。
学校で、ある先生が、娘の「正義」を真っ向から否定したのである。
(詳細は書けない。)
小中学校の先生には考えられない発言で、さすが高校とも言える。
親としては、正直、腹立たしい。
しかし、きっとこういう経験を積んで成長していくのだろうと思う。