私の「ハイジ」

私のようなおっさんが、「私はアルプスの少女ハイジが好きです」というと、たぶん、
ドン引きされる。だからこそ、語っておかねばなるまい。(笑うところです。)
 
そもそも「アルプスの少女ハイジ」というと、「山育ちの純朴な少女の純朴な物語」なんて
イメージではないだろうか。そういう物語を読んでほんわか癒されたいとか。
まず、そこから指摘したい。そうじゃない、と。
 
はじめて「ハイジ」に出合ったのは、中学3年生、高校受験真っ只中のときのアニメだった。
アニメのハイジは、「純朴な少女の物語」と言えなくもない。
そういう側面が強調されていたように思う。
しかし、我々を惹きつけたのは、クルクル動くアニメ画面だった。
当時、アニメーターなんて言葉も知らなかったが、今、あのときの感想を言語化するならば、
それは「アニメの新時代を見た」という気持であったのだ。
まあ、漫画で言うならば、田河水泡から手塚治への変化のようなものがあったのだと思う。
(実を言うと、「ルパン三世」がすでに出ていたのだが、私は(たぶん、多くの人同様)、
 それは再放送で見たのだった。)
 
ただもちろん、お話もおもしろいと思った。
そこで、原作を読んでみた。
私はアニメの「ハイジ」が大好きだが、「原作はまったく違ったもの」と感じた。
より深く感動してしまったのである。
(アニメの途中で原作を読み切ってしまったため、正直、アニメ版に少々不満もあった。
 私が原作でもっとも感動したあのシーンが実にアッサリ。
 が、考えてみると、そこをガッツリ描くとバランスが悪くなるだろうからしかたがない。)
 
当時、中学3年生。
今思うと、かなり恥ずかしい勘違いをしているかもしれない。
(それを俗に中2病というらしい。中3だったけど。)
が、敢えて、ここに書き記しておこう。
 
原作ハイジ(ただし、日本語版)は、地の文と会話の文の調子の違いにめまいがするほどであった。
登場人物の背景も、詳しく語られていく。
それは、不幸のオンパレードだった(表現古いすか?)。
少なくとも、山育ちの純朴な少女の純朴な物語とは思えない内容だった。
いろんな人のいろんな不幸が、これでもかこれでもかと、しかし淡々と語られるのだ。
中3の私は「それをそんなに淡々と語っていいのか?もっと読者にわかるように強い調子で
書かなければいけないんじゃないか?」と思ったものだった。
(みんな、どうして、おじいさんがものすごく不幸だったって気がつかないんだろう?
 おじいさんが村より高い所に住んでるってことをどう思ってんのさ?
 アニメ版のおじいさんは、沖田艦長にそっくりだけど、違うんだよ。)
 
そういう人々の不幸が、ハイジを中心に変わっていく。
簡単に言うと、ハイジ以外の登場人物のほとんどがはじめ不幸なのに、最後には「幸せ」になるのだ。
ここでまた思ったものだ。
「こんなに誰も彼も幸せになってしまうハッピーエンドっていうのは、ほらあれだ、
作者のご都合主義って奴じゃないのか」と。
 
なんて、批判をこきながら、しかし、私はやっぱり感動してしまったのだ。
それから考えてみた。
実のところ、お話の中にひとつ奇跡がある。
車いすの少女が立てるようになるのだ。
が、それ以外の点において、みなさんの不幸の原因は取り除かれていないのである。
それなのにみんな幸せになったのは、要するに、気の持ちようが変わっただけなのだ。
 
しかし、である。
考えてみると、不幸のきっかけは現実の中にあるのだけれど、いつまでも不幸で居続けるのは、
それは気持ちの問題なのかもしれない。
つまり、やっぱり、不幸は部分的にでも解消されたのかもしれない。
それこそ、作者の伝えたいことなのかもしれない。
などと考えたのである。
 
ただし、この話は、明らかにキリスト教をモチベーションにしている。
私はキリスト教徒ではないので、とらえ方が違うのかもしれない。
が、それでも、非キリスト教徒の私にも「わかる」と思える話であったのだ。
つらいことがあっても負けずに生きよう。人々は喜びをわかちあえる、、、みたいな。
 
勘違いならごめんなさい。