都立高校の学力スタンダード

都立高校では「達成すべき学力目標」を学力スタンダードという名前で
策定するらしい。
たとえば国語なら何文字程度の漢字が書けるとか、そういうことらしい。
すばらしい試みだと思う。
(一応言っておくと、前都知事さんのことは、私は心の底から大○いである。)
 
教育というと、「国際社会に対応できる人材の育成」とか「生きる力」とか、
美辞麗句が並ぶばかりで、実際何を目標にしているのかよくわからないことが多い。
あるいは、「T大学に何人合格させる」なんて、確かにはっきりしてるけど、
それはどうなの?というのもある。
それらに比べ「漢字何文字」なんて、教育的にはっきりしていてすばらしいと思うのだ。
これに対して、以下のような批判があるらしい。
 
・目標が形式的すぎる。
・点数競争を助長する。
・学校の序列化につながる。
 
残念ながら、そのどれにも賛成できない。
まず、「人格形成」のような非形式的な目標はもちろん必要だと思うが、
それがあれば形式的目標が要らないとはならないと思う。
そして、形式的目標は、テストの点数で計測されるのが望ましい。
先生が生徒を見て、「うん、この子には、立派な人格が形成された」なんて、
判定をくだす空恐ろしい未来はほしくない。
(未来というか、現状でも、内申制度は半分そうなっていると思う。)
それより、「漢字がいくつ書けるかテストしてある程度以上の点数を取らせる」方が
ずっと健全だと思うのだ。
最後の序列だが、学校間の序列はすでにある。それを知らないとは驚きだ。
現在、学校間の序列化は私塾が行う模擬テストの偏差値で行われている。
それを禁止することはできないだろう。
私は、「私塾の偏差値」より、自ら「自分の価値」を言う高校の方がよいと思う。
 
後記:
興味のある話題なのでネットサーフィンしてみた。
疑問視する意見(?)には、「目標を達成できなかった生徒や教員のケアを
どうするのか?」というものもあるようだ。
これは、あまりにも日本的な話だと思う。
 
日本には「目標」を、「ただのお飾り」から「絶対のノルマ」にまで、
自分の都合で再定義する人も多く、一筋縄ではいかないことも事実だろうと思う。
しかし、目標を立てるからには、「目標を達成できなかった場合の方策」も
考えておかなければならないのは当然であって、そこまで含めて「目標の立案」だろう。
つまり、そこまで高校は公表すべきであり、それをみなが評価すればよいと思う。
 
一応言っておくと、「目標を達成できなかった生徒は切り捨てる」という方策は
あり得ないと思うし、同様に、「目標を達成できなかった教員に(減給や
懲罰的再教育を施すなどの)罰則を与える」などというのも、およそ狂った
方策でしかないと思う。
 
一方、「目標を達成できない人が気の毒だから、明確な目標は立てない」という、
これまたあまりにも日本的解決方法にも賛成できない。