私の「坊っちゃん」感想2

どうでもいい個人的感想が続く。
 
昔読んだときとずいぶん印象が違うのが主人公、坊っちゃんだ。
たとえば、ナイフで自分の指を切ったとき、
「俺のナイフが切れそうもないだと〜。じゃあ、おまえの指で試してみようか?」
とも言えたはずなのにそうしなかった。
宿でぞんざいな扱いを受けると、「けしからんっ」と暴れるのではなく、びっくり
するほどのチップをはずんだりしている。
けんか言葉ならすらすら言えるけれど演説は苦手とか。
真っ直ぐな性格なのだろうけれど、実は、坊っちゃん、押しが弱いのかな?なんて。
江戸っ子って、そんな感じ?
 
坊っちゃんは勝っていない。暴力は負け」という話は、あちこちで語られているし、
私もそう思うが、今言っているのはそういうことではない。
 
それに比べてと言うのもなんだが、山嵐の方がずっと堂々としている印象である。
そう言えば、敵の大将は赤シャツだが、赤シャツが相手にしていたのは山嵐であって、
坊っちゃんではない。最後に赤シャツをなぐったのも山嵐だ。
で、坊っちゃんの相手は、野だいこである。
この辺は個人的に極めて興味深いものがある。
 
小説「坊っちゃん」で坊っちゃんが語っていることが「彼の見聞した事実」で
あったとすると、いろいろ考えてしまうこと・不思議なことがある。
 
たとえば、どうしても考えてしまうのは、「赤シャツは本当に悪い奴だったのか」だ。
状況証拠は揃っているが、あくまでも状況証拠でしかない。
山嵐と赤シャツの対立は明らかなようだが、「山嵐は、ちょっと想像力がありすぎ」
という可能性はないだろうか?
うらなり君やマドンナの供述も(あまり)ない。
下宿のおばあさんは信用できるのか?
狸校長も、赤シャツに乗せられていたのかどうか、よくわからない。
 
それから、「坊っちゃん」の、「外部からの刺激」としての役割についても考えてしまう。
いろいろ事件が起きて、結局、山嵐は教員を辞職することになった。
赤シャツが悪い奴だったとして、それがすべて策略であったとしても、坊っちゃん
この町に来なければ、山嵐は、その策略にはまらなかったかもしれない。
私には、坊っちゃん山嵐が、共鳴のような現象を起こすことで、事態が悪化して
いったような印象もある。
 
ところで、夏目漱石はどのくらい考えて小説「坊っちゃん」を書いたのだろうか?
私の勝手な印象では、「名作」とは、長編で、1つの大きなテーマに貫かれていて、
それでいて、細かいところまで計算しつくされた記述で埋まっている。
そういうものだが、「坊っちゃん」は、どうもそんな感じがしない。
これはやっぱり、冒険小説の一種なんじゃないだろうか。
(勧善懲悪にはぜんぜんなっていない気がするが。)
「近代世界に対する生得の世界の敗北」とか「最後に帰っていくところ」とか、
そういうことは、自然に出てきちゃったということで。
 
失礼致しました。
なんにしても、本当におもしろかったです。