普通の勉強と受験勉強3

我が家の家庭学習の目的は、たぶん、2つある。
 
 1 頭を良くすること。
 2 入試で合格すること。
 
である。
どちらが大事かというと、圧倒的に、1 の方である。当然ですよね。(よね?)
ところが、人(というか、私)は、いつしか、2 の方に引きずられていく。
何がどうあろうと、本人が望むなら、望む学校に入ってもらいたいし、
そのために、親ができることは何でもやってしまいたくなるからだ。
 
入試のための勉強を受験勉強という。
ところで、受験勉強をすると頭が良くなるだろうか。
もしそうなら、(少なくとも我が家の場合は)「受験勉強さえやっていればよい」と
いうことになるだろう。
 
「頭が良いとはどういうことか」は、昔考えた。
それは、頭の中に「(目的に応じて)良い知識の体系」があることだと思う。
(その体系を作っていくのに、創出、伸展、強化、変更の4つのフェーズがあるのだった。)
 
受験勉強は、半ば強制のようなところがあり、競争でもあり、考えようによっては
人生もかかっているしで、随分とパワーが出る。
だから、そのパワーを使って、どんどん知識の体系を作っていくことができる。
受験勉強をすると、確かに、頭が良くなるのである。(と、私は思う。)
 
ただし、「知識の体系」には、目的に応じた良し悪しがあるのだった。
受験のみを目的とした知識の体系は、受験のためには大変良いものだろうが、
他の事にはあまり使えないかもしれない。
(恋愛問題に長けている人が、必ずしも数学問題に長けていないのと同じである。)
たとえば、数学や理科の公式を、テスト対策のみを目的に覚えていっても、
受験以外のことではあまり役に立たない、と理系の私は思うわけである。
実際、珍妙な(としか私には思えない)パターン暗記もある。
 
しかし、そのように、「受験にしか使えない頭の良さを身に付けてしまう」などと
いうことは、目的意識さえ持っていれば避けられると思う。
ここで言う目的意識とは、「何のために勉強しているのか」ということである。
受験以外に目的がないのなら、受験勉強以外の勉強はしなくてもよいだろう。
受験以外に勉強する目的があるのなら、その目的を見失わないようにすればよい。
「頭を良くしたい」のなら、その事を、忘れなければよいのだ。
(もちろん、合格するためには、多少なりとも(かなり?)、受験にしか使えない
 知識を覚える必要はあるはずだが。)
 
だから、注意していれば、「受験以外では役に立たないガラク・・・」、いや失礼、
「受験以外では役に立たない知識の体系」を、知らず知らずに作ってしまう可能性は、
少ないと思う。繰り返すが、注意していれば、であるが。
つまり、うまくやれば、受験勉強によって、受験以外のことにも役に立つ頭の良さを
手に入れることはできると思うのだ。
 
その点に問題はない。
しかし、である。
私は、ほとんど根拠なく、受験勉強だけで作り上げる知識の体系、つまり、頭の良さは
ほどなく限界に達してしまうのではないか、と思うのだ。
強い説得力のある根拠はない。が、私なりの考えを書こう。
 
そのひとつの根拠は、「受験勉強の目的は、結局、受験だから」である。
「受験を目的とした勉強は、最終的には、受験に向かっていく」ということだ。
 
たとえば、野球がうまくなりたい人が、トレーニングとしてサッカーをやったらどうだろう。
(私は、スポーツの専門家ではないので、単なる、思考実験にすぎないが。)
私は、野球がうまくなりたければ、なにより、野球の練習をするべきだと思う。
しかし、人によっては、完全野球漬けより、「遊び」でサッカーの練習を取り入れた方が、
いろいろな筋肉が鍛えられてよい、と思うかもしれない。
私はそう思う。
しかし、やりすぎてはいけないはずだ。
つまり、野球の練習ができなくなるほど、サッカーの練習にのめりこんだら、たぶん、
野球は下手になっていくだろう。
私が言いたいのはそういうことだ。
 
受験勉強によって、「受験以外でも役に立つ能力が開発される」ということはあると思う。
受験勉強も、せっかくやるのだから、そういうご利益は最大限にいただきたいものである。
しかし、受験勉強が受験を目的とした勉強である以上、そればかりやれば、「受験以外にも
使える能力」の強化からは、だんだん遠ざかってしまうのではないかと思うのだ。
 
もうひとつの根拠は、「受験勉強では基礎が育たない(育ちにくい)だろうから」である。
ここで言う「基礎」とは、「基礎的な、ものを考える力」とでもいうものである。
あるいは、岸本裕史先生が言う「見えない学力」と同じものだと思う。
なぜ、受験勉強では基礎が育たない(育ちにくい)と思うかと言うと、まず、先の話と
同様であるが、「基礎的な、ものを考える力」を伸ばすことが、「受験勉強の目的」では
ないからである。
また、受験勉強には、外部から強制される範囲と期限がある。
私は、考える範囲や時間を他者に強制されると、人は、あまり考えることができなくなる
ような気がしてならないのである。
 
論点を整理するなら、私は、「受験勉強はいけない」と言っているのではない。
むしろ推奨派である。
しかしまた、「受験勉強だけでは、おそらく、いけない」と言っているのだ。
 
続く。