「つかんだ」ということ(子供編)

娘に数学や理科を教えていて、「もう少しでつかむのでは」と思う。
という話を妻にしたら、「つかむって何?」。
う〜ん、そうだね。と、思って考えた。
 
私が感覚的に思っているのは次のようなことだ。
 
たとえば、数学で一次方程式を立てる。
たとえば、数学で場合の数を考える。
たとえば、理科でレンズを通る光の道筋を作図する。
そういうことは、普通は、まあ、習わなければできないことだろう。
 
しかし、そういうことは、当たり前になるべきだと思う。
いや、当たり前になるはずだ。(いや、やっぱり「べき」かな?)
そういうことは、覚えて使う「やり方」ではなく、単に「考える」と
いうことの1つになるはず(べき)だ、と思うのだ。
 
だから、また同じような問題を見たら、今度は、やり方を思い出す
のではなく、ごく自然にやり方を考え、特別な感慨を持つことなく、
正解を導けるはず(べき)だと思う。
それは、子供にとって「ブランコに乗る」、大人(?)にとって
「駅で切符買う」などと同じことになるということだ。
 
そうなることを、私は、「つかんだ」とよんでいるらしい。