ノート2

ノートについて。その2。いや、続けるほどのこともないけれど。
 
ノートはどういうときに作るのだろうか。
今は、子供の話だから、それは明らか。
授業(学校や塾の)で作るのだ。
 
実のところ、ノートは、先生によって変わってくると思う。
思い出話で恐縮(とブログに書くのも変)だが、ノートに関して、思い出深いのは、
高校のときの物理の先生だった。
 
先生は、定義などを、口頭で言い、それを正確にノートに写させた。
黒板に書いてくれないので、一字一句そのまま書き取ったのだが、その文章は、
物理的に美しく、リズムがあって、思わず吟唱したくなるようなものだった。
実際、私は、「エネルギーの定義」などを、一人で吟唱していた。
もちろん、板書もしたが、その内容も実によく考えられたもので、出来上がったノートは、
世界に1つしかない自分だけの参考書になった。
本当は、クラス中、と言うか同学年の生徒がみな、同じ「参考書」を手にしたのだが。
私は、このノートを何度も読み返し、「ああ、美しいなぁ〜」と思ったものだった。
「ああ、先生はこういうことを言っていて、その例として、この問題を出したのか」
なんて、あとでわかることもよくあった。
 
こういうケースは、他にもあった。
やはり高校の化学の先生のノートもよかった。
この先生は、「青い結晶」というところを、「美しい青い結晶」などと言い、
「いいか、絶対に、"美しい"を省略するんじゃないぞ」なんて言っていた。
これは、まったく無駄のない物理のノートと違うのだが、楽しいノートになった。
大学に入ると、哲学、解析、量子力学統計力学なんかのノートが「参考書」になった。
 
一方、講義そのものはよかったけど、「何度も読み直すノート」は作れなかった、
というものもある。
高校までの数学のノートはみなそうだ。
たぶん、系統的に読み返したことはない。
(「あれ、あの問題どうやって解いたっけ」的に見直したことはあったと思う。
 数学では、それが大事だと思う。)
高校の漢文の先生の授業は最高で、私の人生への影響も大きかったと思うのだが、
ノート自体は、いたって「普通」だった。
「泥棒した親を役人につきだした子供は正直者か(論語の一節ですね)」
なんて問題をやっていたが、友人の反応や先生のお話は、ノートにまとめられる
ようなものではなかった。
また、プリントを使うので、ノートが作れない講義もあった。
 
要するに、子供のノートは先生次第なのだと思う。
だから、子供に、「良いノートを作れ」なんて言うのはあまり意味がないと思う。
 
ただ、私は、子供に勉強を教えていて、ノートを作らせることもある。
あの物理の先生のようなことはできないが、ちょっとだけ、考えてしまうのだ。
子供が読み返すようなノートを、どうやって作らせようか、と。