「できるようになる」について5

このエントリーの主題は、「逆上がり」も「数学」も「できるようになる過程」は
非常に似ている。ということだ。
そのことについて、証拠も証明もない。
だから、一方的な断言によって、このエントリーは終わる。
しかし、ここで少し続けたいのは、「数学」(など「思考系科目」)の
特異性を指摘したいがためである。
 
「逆上がり」や「水泳」は、「お手本」を見せなければ、かなり難しいと思う。
ここで言う「お手本」とは、「スタート点でスタートを切るための理解」を
得るのに役立つ「お手本」のことである。
たとえば、「逆上がり」で言えば、「手の握り方」とかそういう細かいことよりまず、
「逆上がりとは鉄棒に自分の体をまきつけるようにして、足から上に上がること」を、
人の体で示すことを言っている。
「手の握り方」や「足の振り上げ方」は、そのあとの話だ。
「水泳」で言えば、「人間が水に浮いて、手足で前に進む」ということのお手本だ。
「自転車乗り」で言えば、、、もう、いいですね。
 
ところが、「数学」の場合、この最初の「お手本」を見せることが非常に難しい。
「逆上がり」なら、「ほら、見てごらん」と先生が一回やって見せれば、
大抵の生徒は、何をやろうとしているのか、わかると思う。
(そして、そのために、考え始めると思う。)
しかし、「方程式」の場合、先生が、「ほら、見てごらん」とやって見せても、
なんだかわからない人が多いと思う。
つまり、「逆上がりとは鉄棒に自分の体をまきつけるようにして、足から上に
上がること」のように、「方程式」を、「方程式とは○○すること」という形で
理解することは、なかなかできないのだ。
もちろん、「方程式とは、わからないものをxとおいて、式を立て、求めること」
などと先生が言葉で言って聞かせても、なかなか、納得には至らないと思う。
(「逆上がりとは・・・」は、説明するために言葉で書きましたが、「言葉による
 理解」という意味ではありません。言わば「体感的な理解」のことです。
 「方程式」にも、そのような「体感的な理解」あるいは「直感的な理解」が
 あると信じます。)
 
それは、先生の教え方とか生徒の理解力の問題ではなく、「方程式」の方が、
「逆上がり」より、「頭の中での作業」が複雑だというだけのことだと思う。
頭の中の動きを生徒に見せるのは難しいのだ。
 
いやいや、それでも、「方程式の解き方」を見せることが、結局「お手本」を
見せることではないか。とおっしゃるなら、その通りだと思う。
実際、「勉強はどのようにするべきか・させるべきか5」で、そう書いたし、
意見の変更はない。
ただ、その「お手本」は、「逆上がり」や「自転車乗り」や「水泳」ほど、
わかりやすくはないだろうということなのだ。
 
では、どう指導すればよいかというと、しかたがないので、結局、見せられる
「お手本」を見せ続けるしかないだろうと思う。それこそが、「勉強はどのように
するべきか・させるべきか5」で書いたことだった。
 
ではでは、なんで、今更、そんな話をするかと言うと、そういった特殊性
(もちろん、数学に限らず、頭の中で作業が多いもの全般に同じことが言える)
を考慮しつつも、「数学ができるようになること」の本質は「逆上がりができる
ようになること」なんかと似ているのではないか。
ということなのだ。
 
ところで、「逆上がり」には、「頭の中での作業」がないだろうか。
もちろん、かなりあるはずだ。
そして、その部分の直接的お手本は、やはり、あまり見せられない。
それでも、やっぱり、なんとかなる。
 
結論するなら、「逆上がり」も「数学」も、それぞれに、異なる難しさ(難しさの
方向性が違う)があるが、「できるようになる過程」(「できるように指導する過程」)
は、ほとんど同じだと思う。ということだ。
そして、指導するなら、これらの類似点・相違点に留意して指導するとよいのでは
ないだろうか、と思うのだ。
 
終了、、、と思ったのですが、「じゃあ、どうすれば数学ができるようになるか」の
考察がなかったので、次回、それを書いて終了とします。
ただし、ここで言う「数学ができるようになる」とは、「数学の成績があがる」という
意味ではありません。日本語は難しいですね。
いや、まあ、大抵は、そっちが大事ですけどね。
ここで言っていることは、「逆上がりができるようになる」(「逆上がりが上手になる」
ではない)と同じ意味ですから、普通の言い方をすれば、「数学の新しい分野を勉強し
始めるときに、つまづかない方法を考える」ということになります。
ここまでの流れからして、もう結論は出ていると思うのですが、魔法のような
すばらしい方法を思いついたわけではありません。